![]()

(2001年10月16日付)
1980年代後半ごろから「ボーダーレス時代」という言葉が流行った時期があった。世界経済システムにおける「相互依存」がこれからの時代のキーワードになること、主権国家の枠組みが古くなってしまい、もはや国家だけでは時代の変化に対応できないこと、などなど。
もっぱら当初は経済を中心とした「相互依存」論が中心だったが、やがて冷戦の終わりとともに、経済のみならず政治・文化・社会など様々な分野における国際的統合が深化・拡大していった。この現象をあらわす新しい言葉として「グローバリゼーション」が生まれてきた。
「技術、情報、金融の壁が消え、あらゆるものが国境を超えて広がっていき、地球規模で結びつく『グローバル化』の時代がやってきた」−−ニューヨークタイムズ紙のトーマス・フリードマン氏の言葉である。
情報革命と交通運輸革命によって、人々は互いによく理解しあえるようになる。そうすれば誤解も少なくなり、紛争の火種もなくなってゆくだろう。まさに自由貿易と民主主義の推進による、地球規模の新たな繁栄時代の到来が期待された時期があった。
しかし他方、それへの反論も提示されてきた。「人々は互いによく知り合えば知り合うほど、かえって自分のアイデンティティーを模索するようになり、文化面での防御意識が高まってゆく」−−サミュエル・ハンチントン教授の「文明の衝突」理論は、相互依存が深化すればするほど、かえって紛争の火種が大きくなる、と主張する。
「マクドナルドがある国は戦争をしたがらない」−−フリードマン氏の有名な説である。たしかに国家レベルではそういう現象も指摘できるかもしれないが、これは個人には必ずしもあてはまらない。グローバリゼーションの潮流に乗り損ねた個人が味わってきた生活苦やフラストレーションのレベルは、われわれの想像を超えたものなのだろう。
許容しがたいレベルのフラストレーションを抱く個人にとって、グローバリゼーションは意外な報復手段をもたらすことになってしまった。
「情報革新のおかげで、様々な個人間でのネットワーク作りが簡単になってきました。また、様々な技術特に大量破壊兵器に関する技術も個人の手に渡りやすくなってきました。……どこの社会でも、“主流”からはずれてしまった人々が、以前であれば考えられなかったほどの甚大な損害を社会に対して与えることが可能になってきたといえます」ハーバード大学のジョゼフ・ナイ教授の分析である。
たしかに日本も他人事ではない。オウム真理教のサリンガス事件は記憶に新しい。また昨年、インターネットを通じて知り合った、まったくのアカの他人同士が3人で女子寮に入りこんで暴行事件を引き起こすケースなども生じている。
さらに「主流」に乗り損ねた人々が抱くフラストレーションの危険性についても、日本はすでに第2次世界大戦前に学習済みだ。
東京大学の北岡伸一教授の指摘通り、戦前の日本は、第1次世界大戦以降の急激な産業の発展のため、今日に比べてきわめて格差の大きな社会だった。「(都市経済の発展と対象的な)貧しい地域、貧しい階層は悲惨であった。……その中に浮かぶ都市の繁栄、一部の贅沢を、右翼や青年将校は、許すべからざる腐敗と享楽と感じたのであろう」
その帰結がもたらした悲劇を我々は十分に学んだはずだ。グローバリゼーションの光と影。それをいかに管理してゆくべきか。その施策を練り、世界と共有してゆく義務が、我々日本人にはある。
(米国・外交問題評議会研究員)