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(2001年3月13日付)
『週刊新潮』が創刊四十五周年を迎えたとかで、三月八日付の記念特大号では「四十五年を飾った画期的記事」をピックアップ、その前文に誇らしげにこう書く。
「画期的な視点と取材で社会にインパクトを与えた…」。ものもいいようである。本来なら「画期的な人権侵害と歪曲、捏造(ねつぞう)で社会に…」とすべきではあるまいか。
同誌の特性として、故・斎藤十一相談役は「文芸には正義も真実もない」と揚言してはばからなかった。報道ではない、情報でもジャーナリズムでもない、同誌は文芸だというのだ。文芸という作り物なら、なるほど社会正義も倫理も品格もいらない。事実かどうかの取材も検証も必要としないはずだ。だが読者はまさか同誌を文芸とは思うまい。その実と虚の大きな落差の“影の部分”に逃げ込み、人権軽視の誌面作りを続けたのである。
半世紀に近い間、「インパクトを与えた」とうそぶく記事によって、何千という人々が人権を無視され侵害され侮辱(ぶじょく)され、怒り、悲しみ、やり場のないくやしさに流した涙、その重みを一度でも考えてみるがいい。
今回、採録された画期的なデッチ上げ記事は、裁判で虚偽と断罪された内容のものばかりである。節操なき売文を自ら証明する記事という以外にない。
反人権で双璧(そうへき)の『週刊文春』まで、皮肉まじりに同日号で四十五周年を“奉祝”、ライバルが売り物とするタイトルを「毒があり、底意地が悪く…えげつなさはマネできない」と冷笑している。記事の内容よりまずタイトルありき、取材の結果がどうであれ、タイトルに合わせ自分たちに都合よくデッチ上げるのが常套的手法なのだ。
そのディスインフォメーション(偽情報)の極致こそ、平成八年の「信平手記」と一連の訴訟騒ぎだろう。裁判の結果は司法史上めったにない「訴権の濫用」で、手記のウソも法廷で明白になった。このインチキ記事が、「雑誌ジャーナリズム賞の“スクープ賞”」の対象になったのだから、ただ唖然、呆然、大笑い…。いかさま賞状は今も麗々しく編集室に掲げられているか。
(山本栄一・ジャーナリスト)