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(2000年11月14日付)
人間の好き嫌いの感情とは、まことに没論理的なもので、嫌いの念を活字に定着し ようとすると、『サンデー毎日』(十一月十九日号)の佐高信氏のコラム「政経外 科」の「創価学会学生たちの自覚について」のように、支離滅裂、意味不明な悪文に なってしまう。創価学会が好きか嫌いかは個人の問題だが、評論家を称するからに は、読者を納得させる最小限度の客観性、理論性は持つべきだろう。
佐高氏とテリー伊藤なる人物が、『お笑い創価学会』という“放言集”を出版し た。彼らが並べる対談の“参考文献”は、反学会を“売り”にする週刊誌や書物の記 事、そして風聞と憶測……。執筆者としての直接取材や検証はまったくなしというお よそ考えられぬ無責任な代物である。
その佐高氏が某所での講演後、学会学生部員たちに本の欺瞞(ぎまん)性を詰問さ れたのも当然だろう。むろん彼には答える術もなく、「公明党が森を支え、直前で参 院選のルールを変えるという暴挙に与(くみ)したことの自覚はあるのか」などと、 ナンセンスな逃げを打つことになる。表題の「自覚について」とはこれを意味してい るようだが、学生たちと非拘束名簿式を導入したことと、なんの関係があるのか。
そして、いつでも「対談する用意がある」と強弁するが、順番が逆ではないか。面 接、取材してから書くのがスジで、執筆上の鉄則でもある。このような卑劣な本を出 した後、「用意がある」などとうそぶくのは、もの書きの道義にもとるブラック・ラ イターといわざるをえない。学生部の機関紙『大学新報』のパロディ風の書評「『お 笑い創価学会』を嗤(わら)う」にも嘲(あざけ)られ、裁判所から訴権乱用で却下 された信平狂言訴訟を信憑性(しんぴょうせい)があるかのように取り上げる根拠を 指摘されても、なんの回答もできない。まともな論拠をなに一つ持たず、中傷記事の みを資料とするヘイト・ダイアローグ(憎悪対談)は、表現の自由とは無縁の売文そ のもので、評論家の肩書が泣こう。
(山本栄一・ジャーナリスト)