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連載コラム
「週刊誌ウォッチ・ドッグ」

週刊誌ウォッチ・ドッグ

【41】



「公共性」の無視

著名人の話題性だけを記事にするうとましさ

(1998年10月24日付)



 記事にできるかどうか、記事にする価値があるかどうかを決めるメディアの基準は、公共性があるかどうかである。が、多くの週刊誌、とりわけ女性週刊誌をみていると、そのような基準は、まったく意に介されていないように思える。そこに〈どんな公共性があるのか〉と、つい首をかしげたくなるような話題のオンパレードなのだ。

 たとえば、今週の『週刊女性』の「家庭内凄絶(せいぜつ)暴力!」という記事などはその典型だろう。著名作家の元妻が離婚前の夫の「衝撃的な家庭内暴力」を暴露した「手記」を出版するという話題だが、この記事にはその「凄絶きわまる場面」が抜粋で紹介されている。

 仮に、そのいい分が正しいとしても、夫婦間のことは、まったくのプライベートな問題だろう。それを公表することに、どのような意味があるのか。どうみても、それは夫婦の間のルール違反であるように思える。が、当の元妻は「娘たちへのメッセージです」というのだ。それもプライベートな動機にすぎない。この人には、はじめから公私の区別がないのかもしれない。

 その「手記」の宣伝役をかって出たのが、『週刊女性』の記事である。それがうとましく感じられるのは、公共性という基準を無視して、単なる著名人の「家庭内暴力」という話題性だけに依拠した記事だからだ。結局、読者は“犬も食わぬ夫婦喧嘩(げんか)”につき合わされることになる。

 それにくらべると、『週刊朝日』の「夫婦の階段」が面白かった。漫画家・秋竜山夫妻の「『ほどほど』ですごした三〇年」を紹介した記事だが、ほのぼのとしてさわやかだった。「夫婦が円満でいられる秘訣は何げないところから生まれる」という竜山さんの言葉にも含蓄(がんちく)があり、読んで得した気分になる。それも一つの公共性である。記事が記事になっているということだ。

(玉木明・評論家)