

(1998年7月11日付)
「ロス疑惑」の被告人三浦和義氏に、東京高裁は「逆転無罪」の判決をいいわたした。判決文にも「マスコミの調査報道が先行した事件」とあるとおり、『週刊文春』の「疑惑の銃弾」報道をかわきりに、いっせいに三浦氏に対する糾弾、断罪報道が燃え上がって、なんともおぞましい光景が展開されたことは、まだ記憶になまなましい。
この事件の火付け役となった『週刊文春』は、この判決を受けこう述べている。「われわれの目的は(中略)三浦氏に直接的な容疑があると断罪することではなかった。あくまでも三浦氏に『疑惑』を質(ただ)し、真相を語るよう呼びかけることだったのです」。そして、「三浦氏に対する小誌の問いかけは、今も変わらない」
しかしながら、そのいい分にはいくつかの疑問が残る。
第一に、「疑惑を質す」ことと「断罪すること」との違いはどこにあるかという、根本的な疑問である。人に嫌疑をかけておいて、はたしてそれが断罪報道でないといいきれるかという問題である。
いい換えれば、これは断罪報道にならない犯罪報道はありうるかという、本質的な問題なのだ。その基準を曖昧(あいまい)にしたままの犯罪報道は、かならず断罪報道に道を開くにちがいない。一連の「疑惑の銃弾」報道も、その例外ではなかったということになろう。
もう一つは、無罪判決が出たあとでも、なおその「疑惑」を問い質そうとする、メディアの姿勢の是非である。それを「是」とするならば、メディアは「法」の判断に拘束されないということになろう。
そこには、もともと「法」に先んじて三浦氏を断罪した「ロス疑惑」報道と同じ構図が見てとれるだろう。
いま、メディアが真剣に考えなければならないのは、断罪報道にならない犯罪報道のあり方についてなのではないか。この無罪判決がメディアに突きつけているのは、そのことであるように思える。
(玉木明・評論家)