

(1998年4月4日付)
少年の事件が頻発(ひんぱつ)している。これが、わが子であったらと思うと、背筋が寒くなる思いがする。こういう場合、人はどのようにしてその不安を静めるのだろうか。いちばん手っとり早いのは、それを〈特殊な少年による特殊な事件〉だと思うことである。
最近、ショックだったのは、千葉県四街道市の中二の少年が、友人の父親を鉄アレイで殴り殺した事件。『週刊文春』の「新聞が書けない『一四歳少年』ワルの本性」という記事は、少年の過去を徹底的に洗い出し、ことさらにその素行の悪さを強調している。
なぜ、そうなるのか。この少年がワルであればあるほど、その殺人が理解しやすくなるからだ。これだけのワルなのだから、殺人を犯しても当然だというのがその論理である。裏返せば、これほどのワルでなければ、殺人などは犯さないという論理になる。
このおどろおどろしい記事の背後に隠されている心理を読めば、おそらくそういうことになろう。この記事を書いた記者、編集者も、またそれを読む読者も、そういう論理で自分を納得させ、自分の不安を静めるのだ。 同じこの事件を扱った「フォーカス」の記事は、この少年だけではなく、殺された父親の素行までもやり玉にあげている。極端ないい方をすれば、殺されてもしかたのない父親だといわんばかりの書きぶりなのだ。それもこの事件の特殊性を強調するためだろう。
そうすることで、この事件を〈特殊な少年による特殊な事件〉という構図のなかに閉じ込めて、胸をなで下ろし、それを記憶の外へとほうむりさるのだ。新しい事件が起きても、同じパターンの繰り返しである。 しかしながら、いま頻発している少年の事件は、はたして〈特殊な少年による特殊な事件〉なのか。そうでないとしたら、いま私たちは何を考え、何をなすべきなのか。それに答えようとする記事が一つもないというのは、なんとも情けないことである。
(玉木明・評論家)