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連載コラム
「週刊誌ウォッチ・ドッグ」

週刊誌ウォッチ・ドッグ

【13】



千葉県中学生の父親殺人事件

<特殊な少年の事件>に封印してよいのか

(1998年4月4日付)



 少年の事件が頻発(ひんぱつ)している。これが、わが子であったらと思うと、背筋が寒くなる思いがする。こういう場合、人はどのようにしてその不安を静めるのだろうか。いちばん手っとり早いのは、それを〈特殊な少年による特殊な事件〉だと思うことである。

 最近、ショックだったのは、千葉県四街道市の中二の少年が、友人の父親を鉄アレイで殴り殺した事件。『週刊文春』の「新聞が書けない『一四歳少年』ワルの本性」という記事は、少年の過去を徹底的に洗い出し、ことさらにその素行の悪さを強調している。

 なぜ、そうなるのか。この少年がワルであればあるほど、その殺人が理解しやすくなるからだ。これだけのワルなのだから、殺人を犯しても当然だというのがその論理である。裏返せば、これほどのワルでなければ、殺人などは犯さないという論理になる。

 このおどろおどろしい記事の背後に隠されている心理を読めば、おそらくそういうことになろう。この記事を書いた記者、編集者も、またそれを読む読者も、そういう論理で自分を納得させ、自分の不安を静めるのだ。  同じこの事件を扱った「フォーカス」の記事は、この少年だけではなく、殺された父親の素行までもやり玉にあげている。極端ないい方をすれば、殺されてもしかたのない父親だといわんばかりの書きぶりなのだ。それもこの事件の特殊性を強調するためだろう。

 そうすることで、この事件を〈特殊な少年による特殊な事件〉という構図のなかに閉じ込めて、胸をなで下ろし、それを記憶の外へとほうむりさるのだ。新しい事件が起きても、同じパターンの繰り返しである。  しかしながら、いま頻発している少年の事件は、はたして〈特殊な少年による特殊な事件〉なのか。そうでないとしたら、いま私たちは何を考え、何をなすべきなのか。それに答えようとする記事が一つもないというのは、なんとも情けないことである。

(玉木明・評論家)