

(1998年3月21日付)
大蔵官僚の接待疑惑では、“ワルのなかのワル”と目される数人の大物幹部の名前がとりざたされてきた。『週刊ポスト』『週刊現代』が、そのうちの一人を名指しで取り上げ、「自首せよ」「逮捕状だ!」と書きたてている。また、『週刊新潮』も別の幹部の名をあげ、彼が逮捕されなければ、この事件の「幕引きはない」と騒ぎたてている。
このような記事の裏に隠されている心理を読めば、おそらく次のようになるだろう。国民のほとんどが、“ワルのなかのワル”が逮捕されないのはおかしいと思っているはずだ。そうであるなら、その国民の声を代弁して、「自首せよ」「逮捕状だ!」と書くのに、誰はばかるところがあろうか、と。だが、はたしてそれでいいのか。
もちろん、“ワル”を擁護する気などもうとうないが、それでもこのような報道には、薄気味の悪いものを感じてしまう。これでは、その“ワル”を公衆の面前に引き出し、寄ってたかって、殴る、蹴るの暴行を加えるリンチ(私刑)の類いと、どこがちがうのか。はじめは面白そうに見物していた野次馬も、いつの間にか興奮し、その“ワル”に向かって石つぶてを投げつける光景までが脳裏をよぎってしまう。
人は、法によらなければ、誰からも裁かれない。その社会の鉄則が厳正に守られなければ、もはや民主主義社会とはいえない。そればかりか、このようなリンチが横行する恐怖社会になってしまうだろう。
ジャーナリズムには報道の自由が保証されているが、人を裁く権限までが与えられているわけではない。このような報道が「報道の自由」の名において正当化されるなら、ジャーナリズムほど怖いものはないということになろう。事件の真相を追及することと人を裁くこととは、同義であるはずがない。そのけじめが自覚できないメディアは、もはやジャーナリズムと呼ぶに値しないだろう。
(玉木明・評論家)