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連載コラム
「週刊誌ウォッチ・ドッグ」

週刊誌ウォッチ・ドッグ

【8】



新井将敬議員の自殺

嫌悪催す『週刊現代』の品性

(1998年2月28日付)



 今週はいずれの週刊誌も新井将敬代議士の死を扱っているが、そのなかで嫌悪を催した記事が二つあった。一つは『週刊現代』の「私は悪魔に仕える奴隷だった」という、元秘書が新井氏にありったけの罵詈(ばり)雑言を投げつけている記事。「あの人は本当に悪魔のような人でした」というくだりまである。

 本人が死亡した直後だというのに、このような告白をするほうもするほうだが、それを載せる週刊誌も週刊誌だろう。どちらも人の死を畏れ、悼む心を欠いている。

 これ以上、疑惑を追及するなといいたいのではない。むしろ、逆だ。本人が死亡しても、その疑惑は糺(ただ)されなければならないし、真相は明らかにされなければならない。が、そのことと、故人の人格を攻撃することとはまったく別のことである。この記事には故人の人格を貶(おとし)める意図があっても、その疑惑を糺し、真相を追及する意図があるとは思えない。死人に口なし、何をいってもかまわないという、おぞましい品性しか感じられない。

 もう一つは、『週刊女性』の「美貌(びぼう)妻の“裏評判”」という記事。ここでは攻撃の矛先(ほこさき)が、夫を失ったばかりの妻に向けられている。なぜ、妻までが攻撃の対象になるのか。それが疑惑の解明につながるとは、とうてい思えない。

 おそらく、これらの記事を書いた記者には、それが正当性を欠いた記事だというくらいは自覚できているはずだ。が、それが少しも記事に反映されない。そのような週刊誌の編集システム(記者の名が明示されない無署名記事のシステム)こそが問題なのだ。

 言葉を換えれば、それは何を書いても、記者が責任をとらない(とれない)無責任な報道システムだといっていい。人の弱みにつけ込んだ、おぞましい記事が氾濫(はんらん)するのもそのためだ。そうであるなら、まずその編集システムが変わらなければならない。内部からの変革が求められているということだ。

(玉木明・評論家)