(2001年11月20日付)
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写真芸術は「全人性」の発露 SGI会長の作品は「平和の精神性」の模範 |
――写真展でごらんになった池田会長の作品と、平和指導者として行動する会長の思想とに共通性を感じられますか。
もちろんです。世界の平和と向上のために尽くされる偉人は、その内面に鋭敏な精神を宿しています。その発言や行動は、単に頭に浮かんだ抽象的な考えを述べているのではなく、実際に自身が体感し、確信していることを表現したものです。
写真を含めた、あらゆる芸術表現とは、まさに著者の感性の発露ですから、池田会長が写真で表現されることは、会長自身の思想であり、その写真が自身の行動に込められた信念と一致するのは当然です。一人の人間が、写真や詩や対話など、異なる表現方法を使ったとしても、そこに表現される究極は「同じ人間自身」であり「同じ精神性」なのです。
――例えば富士山のように同じ被写体を写しても、撮る人によって違う作品になりますが、その理由が今おっしゃった視点からも説明できるように思います。
日本人が富士山を誇りに思うように、アメリカでは例えばヨセミテ(国立公園)の自然美が人気を集めています。しかし、同じ場所の景色でも、印象のまったく異なる作品がたくさんあります。
私たちの感受性は、私たち自身の体験に基づいているものです。したがって、作品が表現するのは、単に「そのものが私にどう見えるか」ではなく、「そのものを私はどう感じているか」であるといえるでしょう。
そうした表現のプロセスは、一方では「パーソナル(個人的)な意味づけ」であり、他方では「カルチャラル(文化的)な意味づけ」でもあります。そこには人間の「全人性」が関与してくる。
言葉による概念の表現よりも、写真や絵画などの芸術表現は、こうした人間性の微妙な多彩さを際だたせるものです。
私は、「写真」のもつ機械技術の側面よりも、こうした精神性の側面に注目しています。この写真展のタイトルの「自然との対話」は、まさに言い得て妙であると思います。写真とは、通常の言語によらない、「もう一つの対話」であることを実感させてくれます。しかも、「私たちの世界は、こんなにも美しかったのだ」と教えてくれる、本当に美しい、詩的な対話です。それは池田会長の人間性が、私たちの優れた模範であることの証左です。
――「写真」を教える際に、学生に強調しておられることは何ですか。
現在、私が映像芸術の一教科として教えているのは写真の基礎的なメカニックに関することですが、学生が写真芸術の商業的側面だけでなく、より以上に芸術的意義を学ぶことを念頭に置いています。
学生たちには、写真という自由な表現を通して他人を啓発し、勇気づけられることを学んでほしいのです。彼ら全員が写真家になるかどうかは別として、写真という「文化」の価値に気づき、創造的な体験を積んでほしい。それが「人間」としての自分を認識し、より深い次元で自身を開発していく一助となることを願っています。
――この大学(サンディエゴ校)からほど近いオレンジ郡に、アメリカ創価大学が開学しました。「創価教育」に期待されることは何ですか。
アメリカ創価大学が標榜する「創価教育」は、仏法の人間主義を基盤としていますね。私は仏法の特色である(色心不二や依正不二などの)「不二」の概念や「永遠の生命観」は、私たちに深い次元の「自由」を与えるものと期待しています。
「創価教育」は、人間を既成のシステムの枠にはめようとするより、個人の持つ可能性を最大限に引き出すことに眼目がある。実際、アメリカ創価大学の学生は国際色に富み、多様な個性をもった人々が集ったと聞いています。
牧口常三郎氏が著した「創価教育」の思想は、現代においてすら、まだまだ先進的です。その実り豊かな結実へ向けての実験が、ようやく始まったところと私は思います。
アメリカ創価大学が発信するメッセージは素晴らしい。キャンパスの開学によって、そのモデルも登場した。今後、日々の具体的な教育実践が始まり、それがアメリカ社会でどう評価されるか、いよいよ楽しみです。
略歴 Phel Steinmetz 1944年、イリノイ州生まれ。11歳の時に写真家を志し、「西海岸派」のアンセル・アダムスやウィン・バロックについて写真を学ぶ。その後、フリーの写真家として商業写真の限界を超える探究を続け、13冊の写真集を世に問うとともに、北米、ヨーロッパ、アジアの各国で作品が紹介されている。カリフォルニア大学サンディエゴ校・映像芸術学部助教授。