![]()
(2006年10月31日付)
米国の東海岸でビールを買った。店を出ると、現地に住む日本人の友があわてて私に駆け寄った。「早く酒を隠しなさい。あなた、逮捕されるよ」。ここでは子供の目のある街頭で、酒を裸で、または中身が見える透明か半透明の袋で持ち歩いてはいけない。
来日した欧米人が驚くのは、子供のいる日中の時間帯に、テレビのCMが、のべつ、酒類を「おいしそうに飲む」シーンを繰り返すことである。彼らが驚くのは、まだある。
(1)カフェインを含む紅茶やコーヒーを、家庭や自販機で、子供に自由に飲ませる(2)子供が通る都心の映画館の前に、どぎついポルノの看板が立っている(3)ポルノや暴力のビデオ、DVD、雑誌の店に未成年が群がる。これを黙認している。
以上の驚きに共通するのは、日本では、商業主義の宣伝の洪水に、街では通行人が、自宅では家族が、直接さらされることである。米、欧では共通して、経済社会の好ましくない影響から「家庭の価値」や子供を守ることは、政治や選挙の重要テーマである。
商業主義の誘惑の最たるものは、テレビのCMである。それも最近は、CMだけの問題にとどまらなくなった。テレビの番組全体が、急速にCM化してきたのである。
昔から庶民が常用していた食品をテレビが健康にいいと称して、次々と取り上げる。視聴者が品物に殺到する。品物が店頭から姿を消す……。このような騒ぎが何度繰り返されたことか。
トリノ五輪では、スケートで金メダルを取った「荒川静香騒ぎ」が起きた。彼女が氷上で踊った音楽、服装品や飲食で出入りした店に、同じものが欲しい、と人々が押し掛けた。
だがこれらは、テレビ局が必ずしも、当初から意図的に演出したものではない。
それが最近では、番組の本体にセールスの作為が入る。ドラマで俳優の持ち物を大写しにする。売りたい音楽を流す。何が、どこまでやらせなのか。歯止めはどこまでか、紛らわしい。放送法にも触れる恐れがある。真面目なメディア論を不可能にしてしまう。
あらゆるテレビ批判が、こうして絶望的になる。テレビ文化の日本的なゆがみを必然化している根は、異常に深い。放送に表れた部分や結果だけの批判は、ヌカに釘である。
2003年7月、放送界は第三者機関として、放送倫理・番組向上機構を発足させた。放送と人権等権利に関する委員会、放送と青少年に関する委員会、放送番組委員会、の三つからなる。視聴者からは、1カ月に800件前後の意見や苦情が寄せられている。
放送関係者は、画期的な前進だと言う。が、とどの詰まりこれは、業界の、苦情やトラブルの事後処理機関である。テレビ文化の、問題の根源に踏み込むものではない。
問題は、視聴者側が社会の中で、複雑で切実な課題を抱えてテレビに求める情報と、テレビ側が、放送経営者とスポンサー双方の利益の極大化を狙って送る情報とのずれが、亀裂にまで開いたことである。
亀裂を視聴者側に引き戻す原点は「報道の公共性」と「国民の知る権利」である。残念ながら日本ではこれが、市民の失笑を買う軽さである。
日本在住の外国人が、200万人を超えた。新聞もテレビも、日本人だけを対象とする時代ではない。にもかかわらず、メディアの島国思考は、いつまでも続く。日本のメディアは、世界に通用する普遍性と公正さ、国民の知る権利を正視する責任がある。
国連本部政務官・川端清隆氏は、イラク問題を巡る、危機に瀕した国連外交の虚実を、日本のメディアで理解することは、ほとんど不可能であった、これが国内の論議を混迷させた(「世界」8、9月号)と指摘している。
(ジャーナリスト・元鹿児島大学教授=情報社会論)
略歴
やました・くにつぐ 佐賀県生まれ。九州大学卒業。西日本新聞社で論説委員、編集委員。鹿児島大学、福岡国際大学で情報社会論、ジャーナリズム論、地域計画論、産業社会学を担当。著書に『日本型ジャーナリズム――構造分析と体質改善への模索』ほか。