![]()
(2001年4月10日付)
メディアとかかわらざるをえない現在、私たちはまず、メディアを読み解くための「技術」を身につけることが肝要です。そして、その技術に基づいて、「判断力」や「考え方」を獲得することも大切です。冷静に社会を見る眼、世界を見る眼、自分自身の位置を見る眼を築き、主体的に社会と関わるための一助としていくことがメディア・リテラシーの目指すところです。
議会政治が否認され、市民の自由や政治的自由が抑圧されていた一九三〇年代、哲学者の戸坂潤は「ジャーナリスト論」(一九三五年)という小論のなかでこう述べています。
「元来から云(い)うと、一切の人間が、その人間的資格に於(おい)てジャーナリストでなくてはならぬ。人間が社会的動物だということは、この意味に於ては、人間がジャーナリスト的存在だということである。……人間はただおしゃべりをする動物なのではない。何かの必要があって口を利くのである」(『戸坂潤全集』第四巻)
私たちが歴史に学ぶべきは、全体主義的、権威主義的な支配体制によって人々の自由な発言が封じられ、戦争へと発展していったこと、そしてジャーナリズムが合理的な思想体系も持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝し、その体制を結果的に支えたことにあります。
マスコミ研究者の新井直之氏はジャーナリズムについて「いま伝えなければならないことを、いま伝え、いま言わなければならないことを、いま言うこと」と定義しました。この定義に従うならば、継続性や定期性がなくても誰であれ「いま、声をあげて伝え、言わなければならないことを言う」人がジャーナリストだということになります。専門的なジャーナリストはその活動を日々行い続ける人のことということになります。
私たちはときに言わなければならないことがあっても、地域や職場、学校などさまざまな組織で発言を躊躇(ちゅうちょ)させられたり、沈黙を余儀なくされることがあります。ジャーナリズムも同様に、言うべきことを言わず、その責務を果たさなければ歴史を繰り返すことになるでしょう。
メディア・リテラシーはジャーナリズムを受動的に捉(とら)えるのではなく、自らのかかわりの中で能動的に捉えようとすることでもあります。現実をどう読み解くか、ということは自分自身の生き方と現実社会とをつないでいくことにほかなりません。その意味では、現実のジャーナリズムや民主主義社会をつくりかえていくためにもジャーナリズムに対する批判と評価という自己とのかかわりが必要になります。
一九七〇年代から八〇年代にかけて新井直之氏は「マスコミ日誌」のなかでジャーナリズムに対する定点観測を続けましたが、その判断基準に次の四点を挙げています。
「(1)日本を軍事大国やファシズムに押し進める立場に反対し、平和を維持し発展させる立場をとっているかどうか、(2)世界や日本の大きな動向を伝える、巨視的な視点を持っているかどうか、(3)できるだけ事実に迫る報道をしているかどうか、(4)報道にあたって、人権を重視しているかどうか」
そして、「これらが今後もジャーナリズムを批判するときの基本的な尺度であるだろうと思う」と記しています(『新聞の読み方、考え方−−マスコミ日誌83』)。
もちろん、この基準は新井氏独自の「尺度」ですが、ジャーナリズムがその役割を果たしているかどうかをチェックし、メディアを読み解くひとつの判断基準になるのではないかと思います。
私たちは現実と関わろうとするとき、現在の状況を把握し、そこから未来を予測して行動しようとします。同様に、出来事の原因を究明し、将来への予測を視野に入れて伝えるのがジャーナリズムの役割です。残念ながら現在のジャーナリズムがその役割を果たしえていないのも事実です。だからこそ、私たちはジャーナリズムをつくりかえていくためのリテラシーが必要とされているのです。
(立命館大学産業社会学部助教授)