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(2000年3月28日付)
私たちは日々さまざまな組織の中で生活している。それぞれの組織には明確化され た指揮系統があり、制度化された意思決定システムをもつ。私たちはそこに配置さ れ、人格の一部をそこで作動させる。その結果として組織はあたかもひとつの自律的 な自動機械であるかのように現象する。通常、これが組織という経験である。
しかし、そこに私たちの全人格があるというわけではない。私たちの自我意識と具 体的行動は、どんな状況においても、組織が指定する役割からはみ出す部分をもつ。 会社員として、教員として、店員として組織に関わるとき、私たちは相互にその役割 からはみ出す部分を認識しているはずである。社会学者ジンメルが一世紀前に指摘し ているように、私たちはいつも「役割の束」であると同時に、いつも「それ以外のも の」なのである。
だから、ある人(たち)と出会うとき、私たちはさしあたり特定の役割において出 会うのであるが、すぐに役割からはみ出す部分を認識して、そうしてその人の個性的 かつ人格的な部分と「出会う」のである。役割は個性的なるものを認識するための準 拠枠にすぎない。こうした社会学的な遠近法を、私たちは日常的に駆使している。人 生の機微もそこにある。
ところが、ある特定のカテゴリー(範疇〈はんちゅう〉)で人びとを見るとき、ど ういうわけか、こうした社会学的遠近法が働かないケースがある。宗教組織に対する メディアのまなざしがまさにそれである。
長年、宗教組織は一枚岩の組織として報道されてきた。信者の行動の斉一(せいい つ)性が素朴に前提され、軍隊のような規律の貫徹する組織として描かれてきた。さ らに近年の傾向では、組織の集票機能と集金機能だけがクローズアップされ、信者は 集票マシーンか「愚かな民」として描かれる。あたかも不可視の陰謀集団の頭脳なき 手足であるかのように。
こうして実態とは異なる「一枚岩の組織」という幻想が宗教報道によって日々再生 産されているのである。組織の中の人間が描かれないことは、読者や視聴者にとって 不透明な存在となる。不透明なものは過大視され、勝手に意図を読み込まれ、悪意を 呼び込むことになりがちだ。
たとえば企業組織においてリストラの嵐にさらされているサラリーマンたちのさま ざまな悲哀についてドキュメントするといった企画が星の数ほどあるように、他の社 会領域について一種の社会学的遠近法を駆使できる有能なマス・メディアが、なぜ宗 教組織についてだけ、こうした無能な焦点固定に陥るのか。
たしかに宗教組織には、フランス社会学の巨匠デュルケムの指摘する「集合的沸 騰」の瞬間がある。神やカリスマや真理といった「絶対的なるもの」を軸に、生の共 感や愛着に基づく強固な共同体(コミュニオン)が成立している。それは理屈抜きの ものであり、それゆえ外部からは脅威でさえありうる。
しかし、それは教育現場にもスポーツ・シーンにも演劇や音楽の集会にも夜の酒場 にも、そして組合運動や民主化の過程にもあるものだ。そういう沸騰の数々が社会を 社会たらしめるのである。それ自体が危険なものであるとすれば、停滞している社会 こそがもっとも望ましいということになってしまう。
その意味で、宗教報道は、人間としての「信じる人びと」とまだ出会っていないと いうべきだろう。かえって人類学や宗教社会学などアカデミックな宗教研究の方が、 地道なフィールドワークによって、そうした「出会い」をいくぶんなりとも達成して いる。このねじれはなぜだろう。私はそこに歴史的な理由があると思うのである。
(法政大学 大原社会問題研究所兼任研究員)