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連載コラム
「ロシア メディア事情」
ロシア東欧経済研究所次長・岡田邦生

【9】


多種多様で読み応えのある雑誌

「プレイボーイ」から「エクスペルト」まで

(2006年5月9日付)

 ロシアには19世紀以来、「分厚い雑誌」と呼ばれる文芸を中心とする総合雑誌の伝統があった。それらの雑誌は、プーシキンらが創刊に携わり、トルストイやドストエフスキーらの作品の発表の場となるなど、ロシアの知識人に多大な影響を与えた。しかし、こうした雑誌の多くは1917年の社会主義革命を経て廃刊に追い込まれた。

 ソ連時代、他のメディア同様、多くの雑誌は公式見解を伝える道具にすぎなかったが、一定の社会的影響力を持つものもあった。その最たるものは『ノーヴィ・ミール(新世界)』であろう。1925年創刊の同誌は、ショーロホフの『静かなドン』やソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィッチの一日』など、後のノーベル賞作家がソ連社会の矛盾と苦難を描いた作品を掲載するなど、50年代には非スターリン化路線の前衛の役を果たした。

 また、ゴルバチョフの「ペレストロイカ(改革)」政策の一環として進められた「グラスノスチ(情報公開)」の時代には、1988年に国内で出版を禁じられていたパステルナークの『ドクトル・ジヴァゴ』を、翌年にソルジェニーツィンの『収容所群島』を掲載するなど、大胆な誌面の刷新を行った。当局による検閲や統制から解放された同誌の人気は絶大なものとなり、90年には270万部の発行部数を誇った。

 当時、モスクワに出張すると地下鉄の中で多くの人が同誌を読んでおり、青い字で誌名が書かれただけの水色の表紙が眩しく見えたことを思い出す。しかし、ペレストロイカ時代の情報公開への熱狂は長く続かず、91年のソ連崩壊前後には、人々は政治や経済の混乱に疲れ、また、価値観が一気に多様化したため、主張性の強い「分厚い雑誌」は敬遠されることとなった。

 そして、90年代半ばごろから新たに登場したのは米国の男性誌『プレイボーイ』、フランスの女性誌『ヴォーグ』など、西側の娯楽誌のロシア版、さらに米国の『ニューズウィーク』と提携する『イトーギ』、ドイツの『ディア・シュピーゲル』と提携する『プローフィル』などの西側スタイルの週刊情報誌である。こうしてロシアにおける雑誌も一気に商業化、欧米化することとなる。

 統計的に見れば、ソ連時代の70年には4133種の雑誌が発行されており、ソ連崩壊の翌年に当たる92年、その数は2273種にほぼ半減した。その後、政治や経済の安定化、さらに、情報や娯楽の多様化の動きと共に、古い雑誌の復刊、また、新たな雑誌の創刊が相次ぎ、2004年には雑誌の種類は4674種を数え、ソ連時代の点数を上回った。

 しかし、雑誌の年間総発行部数を見ると、ソ連末期の90年の約50億部から、2004年には10億部へと5分の1に減少しており、ロシアの雑誌が質量共に宣伝誌から商業誌へと変化したことが見て取れる。

 ソ連崩壊後、市場経済化が一気に進められたロシアでは、ビジネス・経済誌の創刊が相次いだが、その中で最も人気が高いのは『エクスペルト』であろう。95年に創刊された同誌は、現在ロシア国内で発行される類似誌の中で最も多い8万5000部の発行部数を有しているが、同誌の人気を不動のものにしたのは、95年から毎年掲載している「ロシアの大企業」という企業調査である。

 この調査ではロシアの400の大企業を売上高と株式時価総額の二つの指標で順位付けているが、同調査によって、近年マクロ的に好調なロシア経済の実態を企業、そしてそれら企業が属する産業分野や地域というミクロの分野で検証することができ、非常に有用かつ貴重な資料である。

 同誌では、この企業調査以外にも「ロシアの地域別投資環境」「ロシア中流階級の生活様式」など、現代ロシアの経済や社会の実態を知るための興味深い調査を継続して実施し、特集記事として掲載している。

 近年、ロシアの雑誌は薄手のものが好まれるようになったが、「分厚い雑誌」から引き継いだ鋭い視点は健在である。

 (ロシア東欧貿易会ロシア東欧経済研究所次長)

略歴

 おかだ・くにお 1986年、創価大学大学院文学研究科社会学専攻博士前期課程修了。在学中に南フロリダ大学、モスクワ大学留学。86年、(社)ソ連東欧貿易会調査部研究員、91〜96年、同主任・調査役、96〜2001年、同モスクワ事務所長、01年より現職。著書に『ロシア・CIS経済ハンドブック』(全日出版)など。