![]()
(2006年2月14日付)
1983年にモスクワに留学していたころ、ロシア語の勉強のために、寮の部屋でよくテレビを見た。しかし、社会主義時代のテレビ番組は娯楽性に欠け、放送を見ながら居眠りをするのが常であった。
また、その年に大韓航空機がサハリン上空でソ連軍機に撃墜される事件があったが、テレビ放送中の記者会見で日本の新聞記者が挑発的な質問をした際、放送が中断されるなど、報道規制を目の当たりにもした。
85年3月、ゴルバチョフがソ連共産党書記長となり、ペレストロイカ(改革)の時代が訪れ、言論面ではグラスノスチ(情報公開)の政策が積極的に展開された。86年のチェルノブイリ原発事故を契機に、ソ連社会の歪みや否定的な面の報道も増えるなど、ロシアのテレビは、それまでの言論統制から解放され、再びの「雪解け」を謳歌した。
特に、89年に開催された新設の人民代議員大会の最初の会議の模様がテレビで生放送された時には、これまでの党や国の公式見解とは全く違う議論百出の議場の様子に、国民は驚き、テレビの前に釘付けとなった。
91年末のソ連崩壊後、国営のロシア・テレビ(RTR)に加え、93年には独立テレビ(NTV)が初の民間テレビ局として産声を上げ、さらに、翌94年には政府が51%を出資するロシア公共テレビ(ORT)が開局するなど、ロシアのテレビ放送は一挙に拡大し、名実共に新しい時代を迎えた。
現在、地方局を含めロシア全土におよそ240のテレビ局があるが、上記3局がロシアの3大ネットとされ、RTRとORTは、ほぼ全国で視聴が可能であり、NTVも都市部では全国で約7割の地域で見ることができる。
一方、情報伝達媒体として新聞やラジオ以上に影響力を持つテレビ放送の自由と制限の案配は、新生ロシアの指導部にとって重要な課題であった。エリツィン時代は、一握りの新興財閥がメディアを支配することは問題視されなかった。むしろ、再選が危ぶまれた96年の2期目の選挙では、新興財閥が支配するNTVとORTの支持によって、エリツィン大統領はようやく勝利を手にした。
しかし、2000年のプーチン政権誕生とともに風向きが変わった。新政権は一部の新興財閥のテレビに対する大きくなりすぎた影響力を除去することに努めた。その結果、実質的な支配者であったNTVのグシンスキー、ORTのベレゾフスキーは国外に逃れ、両局ともに新たな経営陣を迎えた。こうして、国営のRTRを含め、国内の3大ネットは事実上、すべて政府の指導下に置かれることとなった。
99年9月、モスクワでアパート爆破事件があり、チェチェン紛争が再燃した。その後、2002年10月にはモスクワの劇場占拠事件、04年9月には北オセチア共和国ベスランで学校占拠事件が発生するなど、チェチェン独立派武装勢力の闘争はとどまる気配をみせない。
政権がテレビ局を指導下に置こうとした背景に、チェチェン問題があることは言うまでもない。プーチン大統領は、昨年9月の国民とのテレビ対話で、チェチェン問題の解決は「経済を復興し政治状況を正常化する長いプロセスを通じてしか解決できない」と強調したが、ロシアのテレビ報道を巡る状況も長いプロセスを経て最適化されていくのであろう。
(ロシア東欧貿易会ロシア東欧経済研究所次長)
略歴
おかだ・くにお 1986年、創価大学大学院文学研究科社会学専攻博士前期課程修了。在学中に南フロリダ大学、モスクワ大学留学。86年、(社)ソ連東欧貿易会調査部研究員、91〜96年、同主任・調査役、96〜2001年、同モスクワ事務所長、01年より現職。著書に『ロシア・CIS経済ハンドブック』(全日出版)など。