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(2001年4月17日付)
どこにも懲(こ)りない面々がいるものだ。コソヴォ紛争でおよそ四十万人のアルバニア人難民がマケドニアに流れ込んだのはちょうど二年前のこのごろである。アルバニア人難民を手厚く保護したそのマケドニアに、コソヴォのアルバニア人過激派が武力で挑発した。
筆者は政情が緊迫した三月下旬にマケドニアに居合わせた。恩を仇で返すのか、とマケドニア人の怒りも限界にきていた。あらためて民族自決の負の遺産を思い知らされた。
この武力紛争の構図は、一見、わかりにくい。というのも、マケドニアにとって本当の脅威は、コソヴォの武装勢力ではなく、マケドニア国内のアルバニア人の分離独立の動きであるからだ。
マケドニア人とアルバニア人との対立と緊張をあおり、アルバニア人に分離独立を試みさせようとするのが、コソヴォからの武力攻撃の狙いのようだ。実は、こうした事態がいつ起きても不思議ではないと国際社会は危惧していた。ユーゴスラヴィアの分裂の過程でもっとも深刻な民族紛争がマケドニアに発生することを世界は恐れてきた。
マケドニアを中心にバルカンの一帯には、民族紛争の引き金となる民族対立の活断層が国境を越えて縦横に走っている。マケドニア人の民族自決は、その国内人口の三〇%近くを占める少数派アルバニア人の民族アイデンティティー(自己同一性)を危機に追いやった。多数派マケドニア人と少数派アルバニア人が「共存」してきたとはいえ、都市や村で両民族はそれぞれ独自のコミュニティに生きている。
両民族間の婚姻率は一%にも満たないという。アルバニア人はといえば、マケドニアの北部から西部に集中しているが、その国境の向こうには同胞の住むアルバニアやコソヴォが控えている。アルバニア人による民族統合の動きが強まれば、マケドニアの分裂は必至だ。それに、昔からマケドニア人は、隣接するブルガリアやギリシャの一部にまたがって居住している。
ブルガリアやギリシャは、「マケドニア人」の存在を認めたがらず、それぞれマケドニア人の領土拡張を恐れている。そうなれば、「マケドニア」の線引きをめぐって、周辺国を巻き込む地域紛争に発展することが十分に予測された。マケドニア問題は、十九世紀半ばから今日にいたるまで、国際平和を脅かしかねない深刻な問題でありつづけた。
民族境界線と国境線が一致する例などまれである。多数派民族が独立すれば、その新しい国家の中の少数派との緊張関係が、新たに生まれる。些細(ささい)なことが新たな民族対立の火種(ひだね)になる。過去数年間、そうした紛争の火種のひとつであったのが、アルバニア人大学設置問題である。
今回、武力衝突の場となった第二の都市テトヴォおよびその周辺にはアルバニア人が多数派を占める。このテトヴォにアルバニア語による国立大学の設立をアルバニア人が求めてきた。というのも、ユーゴスラヴィアという多民族国家の枠組みがあった時代には、マケドニアのアルバニア人は、隣のコソヴォで学ぶことができたし、ベオグラードで学ぶこともできた。
しかし、独立したとたんにアルバニア人は自前の国立の高等教育機関を持つことを求めた。初等・中等教育の教員養成、さらには民族アイデンティティーの維持、発展に必要であるからだ。多数派マケドニア人の立場からするとアルバニア人のアイデンティティー強化の象徴となるような大学の設置には容易には譲れない。アルバニア人の要求が最終的には、連邦制の実現にあり、さらには分離・独立にあるとみなされているからである。
欧州国際社会の予防外交の貢献もあって、私立大学設置で一応事態は収拾された。こうしたことすら、民族対立に発展しかねないのである。民族自決は、その新しい多数派も少数派も、それぞれ民族アイデンティティのー維持のために、自前の社会、政治の仕組みまで持とうとする。民族自決は高くつく。
事態は予断を許さない。些細なことから、一気に民族活断層に亀裂(きれつ)が走ることが十分に予想されるからである。それだけにマケドニアが独立して以来、国際社会はこの国の紛争予防に取り組んできた。国際社会は、民族対立の温床となるような政治、社会制度の変革に、また多文化主義、多民族共存の枠組みづくりに、深く関与してきた。多民族共存の仕組みができても、民族対立の活断層を埋めることは容易ではない。
マケドニアの武力衝突は、あらためて民族自決の見直しを世界に求めている。それだけに、暴力による一方的な民族独立をけっして国際社会は認めない意思を明確に示さなければなるまい。と同時に、紛争予防の視点から、国際社会による多民族共存、多文化共存に向けての協力と貢献が必要とされている。
(神戸大学教授)