【Seikyo Media Page】Copyright (C) 1997-2006 by The Seikyo Shimbun.



連載「ニュースの眼」
ニュースの眼

映画『カポーティ』が投げかけるもの

報道人に問われる人間観

(2006年9月12日付)

 1970年代、社会的事実を物語形式で表現する手法として、メディア史の一時代を彩った米報道界の「ニュージャーナリズム」――。その潮流の先駆けとなったのが、米国人作家トルーマン・カポーティの著した現代文学の傑作『冷血』である。

 昨年、米国で話題をさらった映画『カポーティ』には、ノンフィクション小説という新たな境地を開いた作家の創作舞台裏が克明に描かれていて、興味深い。約半世紀前、米カンザス州の田舎町で起きた惨殺事件を知ったカポーティは、犯罪者の心理に迫ろうと、容疑者に徹底した取材を重ねる。だが、容疑者との親近感が増すにつれ、執筆への悔悟の念を強めてしまうことに……。

 ベネット・ミラー監督が来日記者会見の席上、「米国で当時、最もカリスマ性のある作家の内面を描きたかった」と語った通り、作品は、取材相手との距離感を見失うカポーティの心のひだに丁寧に焦点を当てながら、ジャーナリズムのあるべき姿を示すと同時に、密着取材に潜む危うさをも浮き彫りにしていく。

 ジャーナリスト・玉木明氏の分析によれば、マスコミ報道は中立・客観性を旨とするゆえ、事実の背後に横たわる全体像を<物語化>する力を欠いてしまう。カポーティは、そこに作家の視座を提供しつつ、<点>である事実を連続した<線>に組み立て、壮大な「事実に基づく物語」を作り上げたのである(『言語としてのニュー・ジャーナリズム』學藝書林刊)。

 そして、その表現方法の転換は、書き手にかつてない苦闘と煩悶をもたらした。いわば、身を削るような取材でしか、人間心理も社会の闇も明らかにはならないと、この映画は語っているのではないだろうか。

 現代日本のマスコミ報道に目を転じてみれば、丹念な裏付け取材のない記事があまりに多い。客観報道すら心許ない現状といってよい。

 事件の社会的意味を探ることが報道の使命の一つであるならば、報道人一人一人に確たる人間観と独自の表現方法が求められるはず――ジャーナリズムの復権を考える時、カポーティから学ぶべき点は、依然として多い。 (光沢昭義記者)

 ●30日(土)から、東京・日比谷のシャンテ シネ、恵比寿ガーデンシネマで公開。全国でも順次。ソニー・ピクチャーズ配給。