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(2006年3月14日付)
日本国憲法21条は「言論の自由」を保障している。しかしながら、「言論の自由」の美名のもと、人権への侵害が、絶えず繰り返されているのも確かである。マスコミはいつも「表現の自由」を楯に、報道の正当性を主張してきた。
「表現の自由」は現在、理念と現実の間に、決定的な矛盾をはらんでいるのではないか――。
新刊『「表現の自由」の社会学』(伊藤高史著、八千代出版)は、その矛盾に取り組む形で、「表現の自由」の現代的意義を再検討する。学術論文ながら、難解な専門用語は少なく、読みやすい。
著者は、日本新聞協会出身の若手研究者(今春から、創価大学で教鞭を執る)。実務経験者らしい、学際的なアプローチが注目に値しよう。「表現の自由」の本質に関する法律論を展開するのではなく、その社会的な役割・機能を明かそうと試みる。
本書によれば、「表現の自由」は今や、権力からの解放をうたうだけに止まらない。メディアの影響力が拡大した結果、それが社会的倫理を逸脱すれば、自主的な規制が要請され、時には、公権力の介入さえも余儀なくされるという。
その意味で「表現の自由」は、「国家/マスメディア/個人」という新たな枠組みで捉え直す必要に迫られている。
インタビューに応じた著者は「例えば、ライブドアによる“買収騒動”が起きた時、フジテレビ側が“電波の公共性”を主張しても、世間に納得してもらえなかった。メディアへの不信を拭えていない点では、反省が必要」と指摘。その上で「自由の行使には、つねに“責任”が伴う。ジャーナリズムの責務は、社会を良くすること。大切なのは、一般的な常識と教養の範囲内で、『表現の自由』の意味を自覚し、反省を続けていくことだ」と語る。
歴史的に見れば、平和も自由も人権も、個人と社会の“不断の闘争”の中で、その実を勝ち得てきた。「表現の自由」も同様である。よりよき社会規範・秩序を形成するために、ジャーナリズムの役割は、いつにもまして重要となっている。
(光沢昭義記者)