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(2005年5月10日付)
先月25日に起きたJR福知山線の脱線事故は、死者107人を出す大惨事となった。突然、愛する人の命を奪われた遺族の悲しみと怒りは、想像を絶する。遺族の無念な気持ちにこたえるためにも、早期の事故原因の究明が期待されるが、それとは裏腹に、JR西日本には不祥事ばかりが目立っている。
新型ATS(自動列車制御装置)整備前の運転再開を示唆したかと思えば、次の日には、まったく逆の方針に転換。ボウリングやゴルフに興じていた社員もいた。それだけにとどまらず、なかには、ボウリングを終えた後、2次会、3次会と称する“飲み会”に参加した者もいたという。
ともかく唖然とすることが多すぎる。市民が安心して乗車できる鉄道環境の整備に向けて、マスコミとしても、事故原因の究明と不正への追及に徹底した監視の目を向けるのは当然だ。だが一方で、遺族の感情を顧みない取材攻勢が、相変わらず問題視されていることも忘れてはなるまい。
例のごとく、メディアの一部は、犠牲者の顔写真を遺族の了解も得ずに掲載。記者の一人は、遺体安置所から出てきた遺族に「どうでしたか」と、無神経な質問を浴びせかけた。学生の犠牲者が通っていたキャンパスにも、多くの報道関係者が群がり、友人・知人のコメントをとろうと躍起になっていた。ある学生は「友人が死んで悲しんでいるのが、ニュースになるんですか」と、記者に問い質したという。
同志社大学の浅野健一教授(メディア論)は「今回の事故報道では、警察が犠牲者の情報を管理していた。それこそ大問題だ。警察はすべての情報を必要な関係者に開示すべきだが、そのためには“原則匿名”の確立と、遺族の要望・苦情に応対するオンブズマン・報道評議会の設置が必要になる」と指摘する。
情報の開示・非開示の区別は公正・公平を期さねばならないだけに、それを“権力の手”に委ねることは避けねばならない。心痛める遺族の声に耳を傾けつつ、なおかつ権力と対峙するメディアになり得るか――事件・事故報道に接するたびに、その課題の重さを切に感じる。(光沢昭義記者)