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宮武外骨と現在

連載コラム
宮武外骨と現在
砂古口早苗

【4】


改革者と支援者の群像
自由人の魅力に惹かれた多くの人士

(2000年11月28日付)


 外骨の生涯は、いたるところ敵だらけだった。悪徳官吏、悪徳業者、悪徳ジャーナ リズム……。彼らに筆誅(ひっちゅう)を加えることは、いわば明治新政府がめざ す、帝国主義軍閥(ぐんばつ)国家そのものを敵に回すことでもあった。一匹狼対国 家。蟻(あり)と巨象の闘い。外骨が“危険人物”“奇人変人”といったレッテルを 貼(は)られたのも、当時の政治状況や、資本主義発展にともなう拝金主義や不正が 横行する社会環境を考えれば、理解できないこともない。

 ▼民主主義を希求する本質が共鳴呼ぶ

 そんな外骨を遠ざけるどころか、物心両面から支援した人物も少なくなかった。外 骨は決して孤立していたわけではなかったのである。外骨の毒のあるパロディーや諧 謔(かいぎゃく)・風刺、批判や罵倒(ばとう)は過激で偽悪的で、屈折した韜晦 (とうかい)性は容易に理解できないことが多いのだが、一貫して民主主義を希求す る外骨の本質を見抜いたところに、支援者らの人間としての大きさがあった。

 弁護士や実業家、学者、作家、ジャーナリストらで、その多くは知識人である。外 骨自身も博識で知識人に属するが、明治国家を担う体制派の官僚的知識人ではなかっ た。だからこそ支援者は、社会に新鮮な風穴を開けてくれる外骨に期待と信頼を寄せ たのだろう。既成概念にとらわれず、絶えずタブーに挑戦する外骨には、人を惹(ひ)きつける自由人としての魅力があったのかもしれない。

 外骨を支援した人々の中で、まずなんといっても『滑稽(こっけい)新聞』時代の 弁護士を挙げたい。大阪での外骨の日常的とも言える裁判闘争を支えてきたのが、当 時の熱血正義派の弁護士たちだった。

 外骨は度重なる筆禍に獄中生活を余儀なくされたが、信念を曲げることなく耐えら れたのも、弁護士らの支援や援助も大きかったのではないか。なかでも、後に大阪弁 護士会会長や市議会議長を務めた日野国明との交流は深く、日野は末娘の三千代を外 骨の養女にさせている(三千代は十九歳で病死した)。

 ▼財界、学術界、言論界…と交流幅広く

 また大阪の著名な実業家、小林一三(阪急電鉄重役、宝塚歌劇団創始者)は、外骨 が日刊新聞を出す社屋を探していると知って、土地を提供した。小林は浮世絵収集家 でもあり、浮世絵に造詣(ぞうけい)が深い外骨がそれらを鑑定した縁で交流が続い た。

 また民俗学者の南方熊楠とは、当時から紀州の奇人と言われた熊楠に外骨が寄稿を 依頼したことから交流が始まった。二人は同じ歳で、ともに権威に屈しない在野人的 性格から意気投合した。

 外骨は大正四年、十五年間住んだ大阪を後にして、再び東京に居を定め、すぐさま 普通選挙を要求する政治結社「民本党」を組織する。おりから大正デモクラシーの民 本主義理念を説く吉野作造と出会い、二人は公私ともども急速に接近する。東京帝国 大学教授でキリスト教理想主義の温厚な紳士の吉野作造と、“一匹狼”外骨との関係 は傍目には奇妙に映ったと思われるが、二人の友情は昭和八年に吉野が他界するまで 続いた。

 この吉野との縁もあって、外骨は大正十三年、東京帝大法学部の嘱託となり、江 戸・明治の制度や風俗文化研究に従事し、吉野や大審院判事の尾佐竹猛らとともに 「明治文化研究会」を作る。

 昭和二年には帝大法学部内に「明治新聞雑誌文庫」を創設するが、創設にあたって は友人の瀬木博尚(広告代理店博報堂創設者)が帝大に十五万円の寄付を申し出、ま た本山彦一(大阪毎日新聞社長、東京日日新聞社長)も個人的に五千円を寄付した。 二人とも、外骨のジャーナリストとしての仕事を深く理解しての支援であった。

(フリーライター)