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(2000年10月31日付)
明治十九年、十九歳で『庇茶無苦新聞』を創刊し、昭和二十一年に『アメリカ様』 『大逆事件顛末(てんまつ)』を出版するまで、実に六十年もの間、外骨は言論著述 活動者としての人生を歩んだ。
その“言論著述活動者”を今風に言えば、ジャーナリストである。ジャーナリスト として自らの自由な活動を広く大衆に伝えるために、外骨は自分で媒体を作った。
『滑稽新聞社』『雅俗文庫』『不二新聞社』『露骨雑誌社』『半狂堂』など、いわ ば外骨自身が新聞・雑誌出版元というメディアだった。だが明治政府は検閲という形 で、外骨のジャーナリストとしての活動に執拗(しつよう)につきまとうことにな る。
近代国家統一を図る明治新政府は、中央集権的な国民意識を大衆に広く行き渡らせ るために、それまでにない近代的な情報媒体を誕生させ、それを利用することが必要 不可欠だと考えた。その意味で、国家権力がメディアを言論統制する側として圧倒的 優位にあった。
このために外骨は、ほぼ生涯、第二次世界大戦終結まで国家と闘わざるをえなかっ た。外骨にとって国家とメディアとは、対立する以外のなにものでもなかった。外骨 のみならず、ジャーナリズムに身を置こうとする者は、大なり小なりこの問題を避け ては通れなかったのである。闘うか、屈伏するか。闘うにしても、一体どう闘うのか ……。
明治二年に「新聞紙印行条令」が公布されて、新聞の発行許可・事後検閲制が実施 される。言い換えれば、言論弾圧政策の始まりである。この状況の中で、翌明治三年 には日本で最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』が発行される。日本の近代新聞は誕生当 初から、民衆の自由な発想からうまれる批判精神をいちじるしく欠いたものとなっ た。
以後、ジャーナリストは、実に大きな制約のなかで奮闘せざるをえなかった。
「新聞紙条目」「新聞紙条令」など次々に公布され、このような法律の前にはいか にペンの力といえども、あっけなかった。多くのジャーナリストが風俗壊乱、秩序紊 乱(びんらん)、官吏侮辱、治安妨害の罪といった理不尽な名目で、発行停止・禁 止、罰金、禁固刑に処せられる結果になった。
外骨の筆禍史は自身の入獄四回約四年、罰金・発禁二十九回におよび、後にこう記 している。「官吏は国家の雇人なり、国民は悪官吏に攻撃を加える権利がある、真の 経世憂国の情熱から悪大臣、悪知事の収賄事実を攻撃すると、旧弊思想の悪吏どもは 秩序紊乱を濫用して我輩を禁固刑に処した、どちらが危険人物か」。国家にとって官 吏と自分とどっちが危険人物か、と憤慨している。その一方でこうも書いている。
「三年八カ月の在獄は、予の一代の最大の苦痛であった。さりながら逆境に処して その苦痛を他へ転換する方策を考え、精神の修養と身体の鍛練に注意し、不撓(ふとう)不屈、過激執拗(しつよう)、官僚や軍閥を敵として始終かわらず(略)、予が もし三年八カ月入獄しなかったならば、常時酒色に耽溺(たんでき)の放縦者、その 後いかなる境遇の者になったかしれない」。
ようするに、自分が真のジャーナリストになれたのは明治政府のおかげ、と言って いるようなものである。
こうして外骨ら先人たちが、文字どおり体を張って切り開いてきた日本のマスメデ ィアは今、歴史から学び取った教訓を生かしきれているだろうか。言論・表現・報道 の自由を得ながら、その役割を見失うことなく、市民や個人の人権を犯していない、 と言いきれるだろうか。
(フリーライター)