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宮武外骨と現在

連載コラム
宮武外骨と現在
砂古口早苗

【2】


日中戦争、太平洋戦争の言論封鎖の中で
滑稽精神で全体主義に抵抗

(2000年9月26日付)


 大正十二年の関東大震災で、多くの人的被害を出したこともさることながら、膨大(ぼうだい)な新聞雑誌類が消失したことに外骨は大きな衝撃を受けた。翌年、外骨は東京帝国大学教授・吉野作造らの要請で帝大法学部の嘱託となり、江戸の制度・文化・風俗の研究に従事する。

 ▼東大に明治新聞雑誌文庫を創設

 やがて、震災で失われた新聞雑誌を蒐集(しゅうしゅう)すべく日本中を奔走する。近代史の記録を後世に残すことが自分の使命、との強い信念があった。旧知の広告代理店社長・瀬木博尚ら外部からの協力も得て、昭和二年、帝大法学部内に創設されたのが明治新聞雑誌文庫である。

 昭和九年、外骨は大審院判事で旧知の尾佐竹猛から一通の文書を見せられた。明治二十二年、外骨が『頓智(とんち)協会雑誌』で帝国憲法を揶揄(やゆ)して筆禍を受けたことに関するもの。当時、法制局長官だった井上毅が上司の伊藤博文にあてたもので、それは外骨を不敬罪としたのは当局の勇み足で、冤罪(えんざい)であることを認めた内部文書だった。

 早速これを発見した尾佐竹猛らが発起人となって、外骨の「筆禍雪冤(せつえん)祝賀会」が日比谷公園・松本楼にて盛大に開かれた。参加者は実業家、ジャーナリスト、学者、作家ら、外骨の支援者である。外骨にとって晴れの日となったが、外の世界は軍国主義と右傾化の波が寄せていた。

 現実社会をリアルタイムで批判し、自由に自己主張してこそ、ジャーナリストは存在意義がある。だがそれができないことほど、屈辱的なことはない。やがて日本は日中戦争からアジア・太平洋戦争へと泥沼に突き進むなか、宮武外骨という名前は世間からしだいに忘れられていく。

 ▼戦争中も健在だったユーモア

 明治・大正、諧謔(かいぎゃく)と風刺(ふうし)で外骨ならではの反骨精神を発揮した外骨も、戦争という集団ヒステリー状態ともいうべき全体主義には勝てなかった。兵士は戦場で殺し殺され、市民は空襲にあい、言論封鎖で抑圧され、食料も満足にない。だれもが真に生きているとはいえない時代。それほど人々にとって第二次世界大戦は、日清・日露とは異質な、苛酷(かこく)な戦争だったと言える。

 戦争末期、七十歳後半にさしかかった外骨はその頃の日記によると、絵葉書帳の編集と魚釣りの日々を送っていた。絵葉書帳編集とは、外骨のもとに集められた二万八千枚という膨大な絵葉書を、様々なテーマごとにアルバムに編集されたものである。

 例えば「笑ふ女」「なかよし」「馬鹿」「鵜(う)の目鷹の目」「骨」「ざまみろ」などで、そのアルバムの数は三百冊以上。東大明治文庫の“外骨書架”に保存されている美しいアルバムを、筆者も実際に手にして見てきたが、外骨的な風刺も込められていて、外骨の遊びごころ、編集者としてのセンスがうかがえる。これは言葉で説明するのはちょっと難しい。外骨の本質的なユーモアの精神、滑稽(こっけい)精神は、あの暗い時代の戦争中も健在だったのである。

 昭和十九年、多摩川の近くに疎開した外骨は、玄関に「忌中」と貼り紙を残し、多摩川で好きな釣りをしていた。ジャーナリストとしての自分はもう亡い、といった戦争へ無言の抵抗である。インバネスに中折れ帽子姿で、ぶ然として釣り糸をたれている写真が残されている。

 やがて戦後の昭和二十一年、外骨は皮肉にも敵国であるアメリカによってもたらされた民主主義到来を喜び、『アメリカ様』を書く。同時に、悲願であった『大逆事件顛末(てんまつ)』を出版。この二冊を書き終えたことは、外骨にとってジャーナリストとしての役割を果たし終えたことでもあった。(フリーライター)