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メディア月評

連載コラム
「メディア月評」
創価大学教授・森 幸雄

【12=完】


ジャーナリズムに求められるもの

多様化した社会における正確と公正

(2005年6月28日付)

 ニクソン米大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件報道の、匿名の情報源として有名であった「ディープ・スロート」が30年以上たって明らかになり、話題となっている。

 学生であった私の印象に残っているのは、取材した『ワシントンポスト紙』のウッドワードとバーンスタインのふたりの若い記者が、執拗に情報を確認し、正確さにこだわる取材姿勢であった。

 メディアの影響力は一時期思われていたほど強いものではない。メディアで報道されても、自分の持っている態度や意見と違うものを、人びとは容易には受け入れないようである。しかしながら、人びとは『ワシントンポスト紙』の報道によりウォーターゲート事件を自分たちにとって重要な事件と感じるようになったのである。

 事件当初、大統領支持者にとって、大統領の不正事件を話題にすること自体が、受け入れがたいものであったろう。大統領が不正事件を起こしたかどうかの事実認定は別にして、人びとの関心を集めることができたのは、正確さを期して記者たちが報道し続けたためであろう。

 「事実」を確定することは容易なことではない。正確に報道しようとすれば、事実の多様性に向き合わなければならない。困難な作業である。

 受け手にとっても、事実の多様性を受け入れるのは容易ではない。現在では、社会の出来事が複雑さを増し、従来の枠組みでは理解できなくなっているにもかかわらず、以前よりもかえって単純な理解が横行するようになっている。

 情報の多様さが増しているように思えるのに、なぜ単純な図式による「事実」が多くなるのであろうか。インターネットの掲示板やホームページ、ブログなどでは、マス・メディアでは目にしない情報や「事実」が容易に見つかる。幅広いさまざまな「事実」や事実の「理解の枠組み」が提示されている。

 しかしながら、表明された事実や理解の枠組みが一面的なものであることが少なくない。自らと異なる意見や考えを排除することで、事実の本質を理解したと考える人がみられる。自らと異なる意見を理解しようとしない態度が「確たる意見を持つこと」とされる状況も生じつつある。

 「報道は正確かつ公正でなければならず」と日本新聞協会が新聞倫理綱領でうたっている。報道の現実とかけ離れた理想に過ぎないと感じる、送り手や受け手もあるかもしれない。「正確かつ公正」に伝えようと努力する送り手と、単純ではない事実を理解しようとする受け手との共同作業の過程そのものが、ジャーナリズムの過程である。

 ジャーナリストに期待されることは、相互の理解やコミュニケーションが困難となってしまった人びとに、こうした「公共空間」を提供することではないだろうか。「正確かつ公正」な報道という、シンプルな言葉で表現される報道のあるべき姿に近づこうとするなかで、ジャーナリズムの社会的機能が果たされよう。

 (創価大学教授)