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メディア月評

連載コラム
「メディア月評」
創価大学教授・森 幸雄

【2】


アテネ五輪報道に思うこと

TV特性に合わせ競技ルールなど変更

(2004年8月24日付)

 今回のオリンピックはアテネが開催地となり、古代オリンピックと比べられるが、近代オリンピックはまさに20世紀という時代が生んだスポーツ・イベントである。

 20世紀は野球やサッカーのような、観戦して楽しむスポーツが盛んになった時代である。大衆社会の様相をしめした国々では、スポーツ観戦は日常とは異なる世界を生み出すものとなった。対立している人たちや、つながりのなかった人たちが、スポーツ観戦の場では束の間の仲間となったり、ライバルとなったりして楽しみを共有するようになった。

 非日常の世界は宗教的儀礼や祭礼のような場であったが、大衆社会においてはスポーツという世俗の場で非日常の世界が用意された。スポーツが政治的に利用されることも少なくなかったが、スポーツは日常とは別の世界のものと理解されていた。だから立場を越えて楽しまれたのである。

 日常とは切り離されたスポーツの世界は、明るい、フェアな世界であり、スポーツの話題は原則的に、暗い世相のなかの明るい話題として紹介される。

 競技の結果だけではなく、家族や友人の話題まで伝えられたり、同じ映像が繰り返し流されることに辟易する人も少なくないだろう。にもかかわらず、オリンピックのような「明るい」話題では許容されると思われているようである。

 さて、観戦するスポーツは、漫然と見ているだけでは面白味がわからない。観客は観戦術を学ぶことでスポーツを楽しめる。そうした見所を言葉や映像で教えてくれるのがメディアであった。

 マス・メディアによって、スタジアムの座席をはるかに越える「観客」が生まれた。メディアを通して伝えられる世界で、メディアの観客は、スタジアムでの観戦よりも強い「臨場感」を得られるようにもなった。

 このようにして、メディアはスポーツ・イベントにとって不可欠な「プレーヤー」となっていく。スポーツ・イベントはメディア・イベントという様相を示すのである。ラジオ・テレビと新しいメディアが生まれるたびに、メディアのプレーヤーとしての重要性は高まっていった。

 こうしたメディア・イベントという性格が最も強いのがオリンピックである。会場に来られない多くの「観客」を意識して、競技に馴染んだ選手にとって大きな負担となっても、競技ルールが変えられることもある。

 例えばアテネ大会では、卓球はテレビに映りやすくするためにボールの直径を38ミリから40ミリへと大きくしている。ソフトボールでは点が多く入り、攻撃的な試合展開となるように、投手板と本塁の距離を1メートル長くし、打者が打ちやすいように変更している。

 オリンピック競技のなかでしばしば起きる予期せぬことは、テレビのメディア特性が最も生きるものとなる。メディア・イベントとして事前に周到な準備がなされていても起きる混乱や、予想通りにならない競技結果も、逆にテレビの生放送の魅力となる。

 オリンピック報道が純粋に非日常の興奮を味わえるものとなるかわからないが、あと何日か非日常の時間を楽しみたい。

 (創価大学教授)