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学ぶことは生きること――協同学習への誘い

【5】(2006年10月3日付)


切磋琢磨の本質
互いの成長を願うライバルであれ


 学校で子どもたちに勉強させる方法の一つとして、成績(成果)を競わせることがある。競争させれば、子どもたちは互いに競い合って勉強し、切磋琢磨して成長するだろうと期待するのである。

 確かに、「誰が一番早く解けるかな?」「時間内に出来ない人は、放課後残ってもらうよ」「一番得点の高かったチームはどこだろう?」などの言葉がけ(指示)に発奮して張り切る子どもはいる。けれど、競争に勝とうとすればするほど、勉強はその意義を失っていく。

 勉強とは、分からないことを分かるようになるための取り組みである。(ただし、自分が知りたいから分かろうとするのではなく、教師から分かるべきだと押し付けられた事柄を分かろうとするから、強いて勉めねばならないのだが)

 行き過ぎた成果主義は経営の世界でも問題になるが、教育の世界ではなおさらである。ちょっと前に話題になったテレビドラマ「ドラゴン桜」は、あの手この手で知識を詰め込み、劣等生を東大に合格させる話だ。そこでは、とにかく試験に出そうな知識を暗記し、パターン化した解法を問題に当てはめて解く、という受験のテクニックが徹底的に訓練されていく。

 本当に理解したかどうかは重要でない。試験で他の受験生より1点でも多く取り、限られた入学定員枠に勝ち残ればいいのである。勉強は合格という成果のための手段に過ぎず、納得するまで一つの問題を考えつづけるような効率の悪い勉強法は忌避される。

 このような競争の功罪については、すでに多くの人たちが様々に論じてきた。ただ、ここでは協同との関係で少し考えておきたい。

 私たちは競争させれば、子どもたち同士、自然に切磋琢磨し合うだろうと思いがちだ。むろん、競争相手(ライバル)を持つことは大切であり、相手と切磋琢磨することで成長できる。

 ただし、この場合の競争相手とは、競争を通して互いに高まり合い、成長していこうという目的(気持ち)を共有できる相手である。互いに競争相手に恥じない自分になろうと、自らの資質を磨き合うことを切磋琢磨と呼ぶのだ。

 自分の成長にとって、競争相手が弱いままでは(成長しなければ)困るのである。ともに高まり合い成長し合っていく取り組みは協同的なものであり、その意味では、切磋琢磨は協同の一形態といえよう。

 互いに競い合いながらも、その目指すところは互いの成長であるような競争は、その目的において協同なのである。「ドラゴン桜」に出てくる劣等生たちは、全員が同じ学部を受験するライバルなのだが、互いに助け合い、協力して合格を目指していく。それがあのドラマの魅力の一つでもあった。

 切磋琢磨を協同の一形態とみることで、子どもたちに競争させればうまくいく、という素朴な思い込みの危うさに気づく。

 教師によって促される競争が、より大きな協同の一部であるという認識の共有を欠いてしまえば、勝敗の結果だけにこだわり、その過程での自他共の成長を認めることができない子どもたちを生み出してしまう。

 切磋琢磨という望ましい学び合いを求めるならば、まずは子どもたち同士が協同し合う経験を積み、互いの成長を願える関係を築いていけるような配慮を、教師は常に意識すべきであろう。

 (創価大学教授)

 せきた・かずひこ 1960年、東京都生まれ。創価大学文学部卒。ウィスコンシン大学大学院修士課程を経て、イリノイ大学大学院で博士号取得。現在、創価大学教育学部教授。同大学教育・学習活動支援センター副センター長。日本協同教育学会副会長。著書に『ソフト・パワー時代の学校教育』、訳書に『学生参加型の大学授業』など。