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メディア月評

連載コラム
「メディア月評」ワイド版

【12=完】


対談 絶望の側から希望を発信するメディアへ

ジャーナリズムの視点転換のために

フリー・ジャーナリスト 東 晋平
神戸女学院大学教授・村上直之

(2003年12月23日付)

 村上直之・神戸女学院大学教授担当の「メディア月評」最終回は、近刊『彩花がおしえてくれた幸福』(神戸連続児童殺傷事件の被害者の母・山下京子さんとの共著/ポプラ社)を手掛けた、フリー・ジャーナリスト東晋平氏との対談形式でまとめていただきました。

 村上 この1年、イラク開戦を前にしてわが国のメディアが陥っていたモラトリアム状況下でのモラル・ハザードの指摘にはじまり、私の書くものはともすれば悲観的な暗色に染められてきたように思います。とはいっても、メディア現象という喧騒の中にかすかでも聞こえてくる希望の調べに耳を澄まそうとしてきたのも事実です。

 神戸連続児童殺傷事件の被害者である山下彩花ちゃんのご遺族に、この6年半ずっと寄り添うようにして見守られてこられた東さんが、母親・山下京子さんと一緒に先月に出版された本などで声低く語っておられた言葉に、今、わが国のジャーナリズムに真に必要なことは何かがほの見えたように思ったのです。

 東 ありがとうございます。僕もこの一年間「メディア月評」を興味深く拝見してきました。

 近い将来のブロードバンド時代を見越して「テレビ・メディアが地球規模の民衆ジャーナリズムとして成立する予感」を示された点や、少年事件の現場報道から報道陣の姿が排除されているのは、発足した放送倫理機構へのアリバイ作りではないのかとのご指摘。

 さらに、ジャーナリズムの役割としてアジェンダ(議題)設定をし論議の場を提供することを挙げられた点や、日本発の国際メディア創出を訴えられたことなど、強く共感した部分が多々ありました。

報道の根源的役割とは

 村上 さて、12月11日夜の「ニュースステーション」(テレビ朝日系)が、山下彩花ちゃんの遺族の姿を特集で報じていました。そこで山下京子さんが事件直後の心境を「幸せになってはいけない。憎み続けなければならない」という気持ちだったと語られていました。これはどんな事件の被害者家族にも共通する感情でしょう。

 しかし、私たちが注意しなければならないのは、この感情が「ねばならない」という禁止と命令の規範感情であることです。

 これは身体の無意識を刺し貫く権力作用なのです。マスコミが被害者家族に期待するのはいつもこの「憎しみの感情」です。私たちの社会は被害者が悲しみや憎しみの感情を一生持続させることを要求しているというのでしょうか。それほど残酷な社会に私たちは生きているのでしょうか。

 東 その違和感を僕自身も強く感じていました。多くの場合、遺族についての報道が揃って紋切り型の「悲痛」を描くパターンになっていくのです。まるで「悲しみ」や「憎しみ」が描かれていないと読者や視聴者が納得しないという強迫観念に駆られているかのようでした。加害者の逮捕直後、遺族のコメントが社会に沈鬱な気分だけを堆積させていくことや、加害者へのバッシングに利用されることには、何より山下さん一家が苦痛を感じていたのです。

 その後、ご夫妻の詩心は「もう憎まなくていいよ」という亡き娘の声を心に感じとり「憎しみ」の呪縛を断ち切っていきます。そして一連の手記は、メディアに恣意的にコメントを切り貼りされていく状況を打破し、遺族が積極的に全てを語ることで「断固として社会に希望を発信していくのだ」という信念に満ちたものになりました。

 村上 東さんは、「かつての『A君』へ」と題する神戸事件の加害者への手紙(『「酒鬼薔薇聖斗」への手紙/生きていく人として』所収・宝島社)の中で、山下さんの最初の本を出される意図を次のように語っています。

 「悲劇のままで過ぎ去らせては、彩花ちゃんの生きた時間が社会に悲しみと人間への絶望感を残すだけの人生で終わってしまうと考えたからです。最も絶望している側から、社会に希望を発信すること。それは彩花ちゃんの逆転勝利のためへの挑戦でした」

 私は、この言葉に接して、山下さん夫妻にとって東さんが果たしてこられたのはまさにメディアという言葉の原義としての媒介者の役割だと確信したのです。ここにこそ、現在の報道に欠けている視点の転換の契機がひそんでいるのだ、と。

 ご家族の蘇生において東さんとの出会いが決定的だったことは、同じく12月13日に首都圏エリアで放送された情報番組「ワッツ!? ニッポン」で、山下京子さんも言及されていました。

 東 一家と「生と死」をめぐる対話を続けながら、同時にそれを書籍という形で言語化できました。自分たちの思索の軌跡を対象化することで、一家は蘇生への足がかりを得たと思いますし、そのまま多くの読者に人生のすばらしさを伝えることができたと思います。

 一方で、一連の書籍は、いわば山下京子さんが紡ぎ出した美しい「詩」を借りて発した、僕なりのジャーナリズムだったと位置づけることができないでもありません。

 村上 多くの場合、遺族から発せられるメッセージは「憎しみと悲しみの連鎖と増幅回路」となり、ひいては「悪」そのものを再生産させてきたのではないでしょうか。

 東 犯罪被害者の心の軌跡という物語に封じ込めてはいけないというのが、われわれの信念でした。事件の悲惨さ、人間の愚かさ、遺族の悲痛をきちんと伝えつつも、人間への信頼と希望を社会に取り戻させたかったのです。神学者パウル・ティリッヒのいう「それにもかかわらず」という信念で、社会と対話し、ある意味では加害者とも対話したつもりです。

『息子のまなざし』に触れて

 村上 被害者の側から加害者に語りかけるという試みについては、世界的な思潮になっているようです。司法の場でも両者の対話によって加害者の更生を促そうとする「修復的司法」という手法が議論されています。

 東 平和学の父ヨハン・ガルトゥングが述べているように、今日では政体としての国家が神の権威の世俗的な継承者となり、犯罪者は国家に対する犯罪者として国家に裁かれていきます。被害者は置き去りにされ、慈悲は姿を消し、犯罪者へのこだわりと裁判結果だけが残ってきました。

 村上 「修復的司法」にはまだまだその視点が欠けているようです。

 ところで、少年犯罪の被害者遺族と加害少年を扱ったフランスとベルギーの合作映画『息子のまなざし』が日本でも公開されました。そのテーマは「人は聖者にならずに最も憎い人間さえも受け入れることができるのか」というものですね。

 東 『息子のまなざし』では加害者と遺族が共に同じ重荷を背負いつつも、そこから再び人生と社会に価値を創造しようと模索していきます。報復でもなく、排除でもなく、共に蘇生していくべき者として互いを捉え、宿命を使命へと転じていくことができたなら、いかなる悲劇の渦中にもわれわれは希望の曙光を見出すことができます。

 村上 東さんは、それが報道において実現するにはどうあればよいと考えますか。

 東 誤解を恐れずにいえば、今のジャーナリズムに欠けているものは普遍的な意味での宗教性かもしれません。つまり、「善く生きる」ことを促そうとする姿勢です。

 山下さんをめぐる報道の中にも、幸福に向かって悪戦苦闘する一家の等身大の姿を描こうとした優れた報道がいくつかありました。それらを可能にしたのは、結局はジャーナリストたちの持っていた人間観の深さとモラルだったと思います。

 村上 今はまだ萌芽でしかないそうした報道が「断罪報道」に終始する事件報道の分野をもこえて、わが国のジャーナリズムの本流となることを願ってやみません。私は、近代のジャーナリズムが「今そしてここ」という感情をニュースとして写しとることによって日々の欲望と感情を更新する集合儀礼、つまりは現世教という宗教であることを以前から指摘してきましたが、人がこの世に生きる長い時間の中で、たえず揺れながらも深まっていく感情のプロセスにまなざしを注ぐ想像力を養ってほしいですね。


 ひがし・しんぺい 1963年、兵庫県生まれ。駒澤大学卒。神戸連続児童殺傷事件の遺族の手記『彩花へ・「生きる力」をありがとう』を企画構成しベストセラーに。報道被害や少年事件の背景に通底する社会的課題に取り組む。日本マス・コミュニケーション学会会員。

 むらかみ・なおゆき 1945年、群馬県生まれ。京都大学教育学部卒。京都大学助手を経て神戸女学院大学へ。主な著書に『花のおそれ』(誠文堂新光社)、『近代ジャーナリズムの誕生・イギリス犯罪報道の社会史から』(岩波書店)など。