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(2001年12月25日付)
これは私の担当する「メディア月評」の最終回なので、思いつくまま書き残したことに触れてみたい。
アフガニスタンの戦争では結局、イスラム原理主義政権のタリバンが駆逐された。勝者は米国、敗者はタリバンということになろうが、メディアも敗北感を強めているのではないかと想像する。この戦争を「正義VSテロ」の単純図式から脱して報道することは、ついにできなかった。
首都カブールヘの爆撃が激しかった時期、標的の軍事拠点を外れた誤爆によって多くの市民に犠牲が出たことがタリバンの側から明かされ、米国の公式発表もその一部を認めた。戦争は、何の落ち度も罪もない市民を巻き添えにする。戦争の歴史で、この例外は一つもない。逃げ場所のない非戦闘民は、わが身、わが家族に爆弾が降りかかる恐怖に震えながら、爆撃機をやり過ごさねばならなかった。
これは「予告されたテロ」である。「予告されなかったテロ」よりも上等だと言えるか、私は自信を欠く。
ジャーナリズムは、少なくとも、戦争とはそのように理不尽なものであることを、戦場の現実をもって伝えねばならない。カブール取材が可能になった後は、ビン・ラディン氏をめぐるあれやこれやの噂話ではなく、頭上に爆弾が落ちてきた市民の話こそを、詳しく伝えてほしかった。
アメリカ発の軍事情報の中に浮遊していなければ、現代の戦争報道はできないことは事実だろう。だが、戦争の半分の真実は、別のところで見いだす必要がある。負傷した兵士や市民の苦痛を、ペンタゴンが発表することはない。
メディアというスクリーンに、米国の世界観が大映しされた。浮き足立ったのは小泉首相だけではない。英国のブレア首相さえ、追われるように中東諸国を駆け回り、米国の代弁者役を務めた。欧州連合(EU)の元高官はそのような英国首相を指して「米国の召使頭」と呼んだ(「ヘラルドトリビューン」紙)。
こういう状況が本物の「国際協力」であるのか、との問いかけを、私はふだん読む日米欧の新聞論調で見いだし得なかった。国家間の同盟は同盟として認めてよい。その上で、ジャーナリズムは言論において自由であることにもっと勇気を持たなければ、自由諸国の同盟さえ怪しげなものになってゆく危険がある。
2001年は、重大な出来事がこのように連続発生するうちに暮れようとしている。内外共に報道の大当たりの年だった。だが、最近の調査によれば、大学生の90%は日常的に新聞を読むことがないそうだ。東大生の読書が漫画と教科書でほぼ終わるという時世だから、新聞閲読率のこの低さは格別不思議ではない。
メディアに向き合う姿勢が高齢者、中年者層とまるきり違う世代が、登場してきている。世界の出来事や風潮を感知するのに、別のアンテナを彼らは内蔵しているのかもしれない。
だがこれは、報道メディアの危機を示すという点では同じである。新聞もテレビも、組織や営業規模が大きくなりすぎ、権威化しすぎた。それでいながら、一般的に、日本の新聞記事は短くて、たいがいが中途半端な報道で終わっている。社会的に座りのいい報道様式が優先されて、ドキッとするような記事に出合うことは稀だ。この不況期に各社とも空前の好収益をあげているテレビについても、ジャーナリズム精神の枯渇を感じる。ニュースを追うオオカミの飢餓感が乏しい。
メディアの世界には、抵抗勢力がないから改革もない、ではブラックユーモアだ。
(和光大学教授)