![]()
(2001年8月28日付)
「よくも最近の週刊誌はうそを書くと感心している」
参院選の選挙戦最中だった7月下旬に、小泉首相が遊説先で記者団にもらした言葉である(『毎日新聞』7月26日)。一部の週刊誌が大々的に取り上げた「首相重病」説にカチンときての発言だ。
首相の体調については、報道の真偽を判断しかねるが、大部数発行の週刊誌にウソを承知の記事が載ることは、読者大衆がよく知っている。
それらは、一般にいわれる「誤報」とは異なる。週刊誌に限らずあらゆる種類のマスコミ報道には、記事内容が結果として事実と反してしまう可能性が付きまとっている。
事実関係についてギリギリの点で確認がとれないまま出稿せざるを得ないことが、往々にしてあるからだ。だが、最後の一刻まで、報道を真実に近づける労苦をわが身に引き受ける。それが、この世界の職業倫理だ。
週刊誌の編集現場を、私は直接には知らない。けれども『週刊新潮』の〈信平事件〉報道のような、100%事実無根(それは裁判で証明された)の記事がジャーナリズム職場でなぜ生まれ得たかについては、いくらか想像がつく。内容がいかに荒唐無稽、ウソ八百であっても(そのことを十分に知りながらも)販売部数をふやすことを最優先する。
特定の報道対象に対して集中的に悪口雑言を浴びせかけることで、ウソも本当らしく見せかける仕掛けをつくる。この種の記事のほとんどはタチのよくない外部者からの持ち込みなのだろう。編集部は、直接に取材・執筆したものでないから、良心の呵責が薄い。ここには「何が事実か」を追い求めるジャーナリズム精神はない。あるのは「それはおもろい。あいつらやっちまえ!」という、書き得主義だけだ。人間の尊厳に対する凍りついたような無関心が、報道を下支えしている。
新潮社は講談社、文藝春秋、角川書店などと共に、日本の近代文芸を育て、守ってきた立派な出版社だった。私個人にしても、この社の書物によってどれほど読書生活をゆたかにしてもらったか、量り難いほどである。同じ社の発行する週刊誌になぜ悪質なデマ記事が混じるのか、その落差に衝撃を受ける。
週刊誌編集は図書出版よりはるかに短期的な勝負だ。その分だけ「ジャーナリスティック」の度合いが強い。しかし虚構の記事を、虚構であると知りながら、あるいは事実の有無を確かめもしないで掲載するようなことは、ジャーナリズムの精神から最も隔たった行為である。
メディアは、事実を事実として伝えるだけでなく、事態の意味を自己責任で判断し、必要に応じて提言し、批判する。マスコミの重要な社会的機能だ。しかしメディアに従事する人々が留意を要するいま一つの心得がある。どんなに厳しく批判すべき相手であっても、口汚いののしりは抑制する。なぜ批判しなければならないかを、理性に拠って説く。それがこの職業世界の本道であるということだ。
× × ×
「悪をなして永久に栄える道理はない」(ユゴー)。
「悪徳は法則に反せる心情の仔であり、人が実にそれと戦わねばならぬ怪物である」(カント)。
では悪徳という怪物と戦うには何が必要か。それは「道徳的強さ」である。
× × ×
右は本紙8月6日「哲学なき世界に〈精神性の柱〉を」からの引用である。メディアの世界がその社会的役割を生き生きとはたすためにも、内に秘めた「道徳的強さ」以上の武器はないであろう。
(和光大学教授)