【Seikyo Media Page】Copyright (C) 1997-2001 by The Seikyo Shimbun.



メディア月評

連載コラム
「メディア月評」
和光大学教授・伊藤光彦

【7】



「ワイドショー政治」は悪か
民衆が求めるのは責任を取る姿勢

(2001年7月24日付)


 今日の日本政治を形づくっているのは、よしあしは別として、種々の視覚イメージである。今たけなわの参議院議員選挙キャンペーンは、その見本市のようなものだ。

 ▼“日本政界”に稀有な現象

 「ワイドショー政治」という呼び名の元となった高視聴率狙いのテレビ政治番組は、その主要な舞台である。政治は「映像」として興奮を呼び起こし、大衆に政治への参加感覚を与えることが発見された。こういう側面の政治報道は、テレビの独壇場である。

 実は、これが日本の政治史に稀有な現象であることを、現在の政治ジャーナリズムは明確に指摘していない。この国の政治は、どの時代をとっても、十中八、九の局面において陰気であり、見せ場に乏しく、ドラマチックでなかった。政治の成否にドキドキするような機会は、不幸なことにたいへん乏しかった。

 政治報道の急な「見せ物」化が起き、その動画紙芝居に日本の老若男女は固唾を呑んで眼を釘づけにしている。これを「漫画・アニメ時代の産物」とする見方がある。

 朝日新聞の読書欄(7月15日)で、G・カリオーティ著『イメージの現象学』の書評子は(イメージが現代人を支配するのは)「翻訳されたり解釈されたりする必要がなく容易に意味をくみ取ってもらえるからだ」という著者の言を紹介している。イメージはその内容が受け手自らの創作物であるかのような錯覚に導くことがある、とも言う。

 本当にそうであろうか。日本の名もなき民衆は、いま、視覚イメージのはっきりした政治に好悪とりまぜての盛んな反応を示している。確かに、ワイドショー的な映像報道が好まれている。それは、考えるための精神的労苦が不要だから、と片づけてよいだろうか。そのような考え方は、現代の日本国民の政治に対する真摯な憂慮を、見下すことにつながるのではないか。

 ▼活字メディアをうち負かす政治映像

 危機の時代には、身振りの大きな政治家が人気を博するという。ファシズム期の指導者が例に挙げられる。現在の日本は間違いなく、経済的に危なっかしい状況にあり、文化的に閉塞感が強い。しかし国民の大多数は冷静であって、分際に合った律儀な生活以上のものを求めず、ましてや1930年代の日本やドイツを支配したような国際的レバンシズム(報復主義)は皆無に近い。

 政治に対して国民は、過剰な期待を寄せているのではない。「政治家よ、あなたたちになし得ることを、責任をもってなせ」と求めているだけだ。ブラウン管の中で政治家が多少真剣さを帯びて語り出したから、人々は好奇の(そしていささかの希望の)眼差しをそこに注いでいるのだ。

 バブル経済破綻後10年余の政治は、あまりにも現状を変革する意思を欠いていた。その反動が今日の「ワイドショー政治」現象につながっている可能性を否定できない。しかし、ひるがえって問うならば、政治映像を圧倒的に打ち負かすような活字メディアの政治報道が、これまでどこにあったかである。

 民衆は政治が動きだしたことに気づき、自分らがそこで何ほどかの力添えができるかもしれない、と感じ始めている。民衆が求めるのは問題の解決を先送りしない、責任を取る政治である。人々は、映像を通した時、政治家の言のうそ、本当をより良く見抜くだろう。メディアは政治論客のライバルに、無慮無数の志ある有権者が加わったことを知らねばならない。

(和光大学教授)