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(2001年6月26日付)
田中外相の初訪米は無難に済んだと評価されているものの、外相対外務省官僚の争いはまだ当分続きそうな雲行きだ。政治の一現象として、それは決して悪いことではないと私は考えている。
機密費疑惑にしろ人事のあり方にしろ、霞が関を覆う霧が残りなく晴れる日を、主権者たる国民は胸を焦がし待ち望んでいるからである。もっともっと包括的に、深く、国民は知らねばならない。その権利がある。しかし、出来事の推移の中で、国民は自分たちの耳目と頼っていたマスコミ、特に新聞に、裏切られたと感じているのではないか。
「活字メディアは外務省の官僚を応援する。テレビは田中真紀子の肩を持つ」
テレビ朝日の「サンデープロジェクト」でキャスターの田原総一朗氏が、こういう主旨のことを言っていた(6月10日)。そのあと、田原氏は「外務省(の官僚)はテレビなんか馬鹿にしているから」と続けた。するとこのトーク番組に参加していた元外交官某氏が「それは、カスミが外交を大事にしているせいじゃあないか」とコメントした。カスミとは外務省にある記者団体「霞クラブ」のことだろう。その主流メンバーである新聞記者たちは、外交の重要性を知っているので田中外相の流儀に距離を置いている、という意味だと解した。
新聞(「活字メディア」)は、田中外相の政治生命に打撃を与えることを狙ったリーク情報を書きなぐり、テレビは国会委員会における外相の天衣無縫の言動を詳しく追いかけて視聴率向上を競う。
こういう図式が、田原氏の言うように官僚がテレビを馬鹿にしている結果であるとは断定できないが、外務省組織受難のこの時期、役人側が新聞を仲間に引き入れようと図ったことは、日々の紙面を見れば見当がついた。
リークであれ「追っかけ」の結果であれ、あふれる情報はマスコミを活気づかせる。それは結構なことだ。しかし今回のケースでは、私は新聞が言論機関としての本分を失い、官僚を源とする意図明瞭なリークに踊りすぎたと考えている。読者が本当に知りたがっていることは、二の次、三の次とされた。
信頼性をどのように判断したらよいのかわからない記事が多すぎた。さまざまなルートを使い新聞に意識的に流されたニュースである。新聞はそのニュース源について読者に知らせる必要なし、という態度で書いた。
ほとんどは「田中外相は……と発言していたことが分かった」という種類の書き方である。典型例として朝日6月5日夕刊(東京)「田中外相、日米安保批判も/北京会談時ドイツ外相に」という記事を挙げる。フィッシャー独外相との会談に際し、戦後の日米安保体制を安易だったと批判し、日本はもっと自立する必要があると強調していたことが「分かった」と報じるトップ記事である。
この種の記事は「外務省高官によれば」とか「外交筋によれば」といったようにニュース源(をうかがわせる何らかの表現)を記すのがジャーナリズムの規律である。
案の定、この記事を翻訳したものと推定される翌6月6日付の「The Asahi Shimbun」(英字紙)記事ではこれが外務省高官のリークに基づくものであると明記されていた。他の新聞も、リークに踊った点は大同小異である。
田中真紀子氏はいつかは外相ポストから去るが、恒常的なニュース源である外務官僚は大事にしなければならないと新聞が考えているとしたらとんだ心得違いだ。
読者は、外務官僚が外相に関する機密情報をどんな目的でいかに洩らしているのか、それは国益とどのような関係にあるのかを、タブーのない冷静な解説で読みたいと願っている。
(和光大学教授)