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メディア月評

連載コラム
「メディア月評」
和光大学教授・伊藤光彦

【3】



権力に対して「沈黙」しない勇気
民主主義の「システム」としての報道

(2001年3月27日付)


 ニュースは、どのようにしてニュースになるか? 自明なように見えて、これは難しい問題だ。

 マスコミが伝えるほとんどの情報は、何かの「確たる事実」に基づいている。例えば、裁判官の判決文朗読があって裁判記事が出来上がり、イチローのヒットがあって大リーグにおけるその試合の報道に芯が生じる、といったように。

 ▼早期退陣を決定づけた? 1面トップ記事

 では、朝日新聞の三月七日朝刊一面トップとなった「森首相辞意固める」は、どんな事実関係に立ったものだろうか。

 この記事によって、森首相の早期退陣は決定的になった、といわれた。首相が「(予算案などの国会成立を待って)退陣する決意を固め」「自民党首脳や側近に伝えた」という二つのポイントから成り立っていた。

 周知のように、首相自身は否定した。他のマスコミも森氏の辞任が必至とみる政局報道をしきりに流していた時期である。朝日は一歩踏み込んで、業界で言う「書き得」をしただけだ、という評も耳にした。そんないい加減なことであってはならないし、この記事の場合も、そうではあるまい、と私は考えている。

 新聞側が「自民党首脳や側近」(とはいかにもあいまいな表現だが)から、この記事に相当する事実関係を聞き出した、という「事実」がなければ、こういう種類の記事は書けないものである。

 かつて新聞記者を職業とした人間として、私は、新聞が「決断」しなければならない瞬間に遭遇することを知っている。原稿の締め切り時刻直前になりながら、事実の最終的な裏付けがとれないことがある。八○%の確証はあるものの、未確定要素が二〇%は残っている。新聞は「決断」を迫られる。どうするかと言えば、「GO」となる度合が高い。

 とりわけ、政権の行方を左右するような政治の重要局面に関しては、このようなギリギリの「決断」の結果として生まれる記事が少なくないことを知っておく必要があろう。日本の政治は「表面に出たコトバ」だけを追っていては真実をつかみ難い。政治家のコトバは、つねにある種の「翻訳」が必要である。マスコミの中で、新聞はその点において圧倒的なノウハウを蓄積している。

 ▼「大統領の犯罪」を明らかにした米報道界

 こういうことを、私は新聞の擁護(ようご)のため書いているのではない。明治の初期からきのう、今日にいたるまで、新聞がどれほど事実に反した報道をしてきたか、ある時代にはどれほど夜郎自大になったか、誤報・虚報によって、いかに多くの市民の名誉・人権を傷つけたか。それは新聞の批判者たちが主張する通りである。

 しかしそれでも、私は「新聞が沈黙した時」の恐ろしさを考えずにはいられない。権力機構は自浄機能を欠くからだ。マスコミは第四権力と言われるが、実際には、誰も新聞・テレビにそんな公式権力を付与したわけではない。日本国憲法第二一条が「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定しているだけだ。

 異論は強いかもしれないが、この言論の自由の行使にあたって、日本の今日の新聞は、一部で考えられているよりもずっと行き過ぎへのチェック機能を高めている。それでも、こと政権や法曹など権力の中枢に関する動向については「八○%」の確証で書くことがこれからも続くであろう。「書かないことによる危険」が大きすぎる。

 米国で「大統領の犯罪」と呼ばれたウォーターゲート事件が大統領ニクソンの辞任(一九七四年)で決着した時、当時のバーガー米最高裁長官は「これでよかった、システムがうまく機能した」と語ったそうである。

 「大統領の犯罪」を天下に明らかにしたのはワシントンポスト、ニューヨークタイムズ二紙の報道であった。バーガー氏が言った「システム」とは米国の民主主義のことだ。それは政治の共同参画者である新聞のジャーナリズム精神によって生かされた、と法の最高の番人が認めたのだった。日本においても新聞が民主主義の保証人の役をやめれば、この国はニクソン期の米国以上に危ない。

(和光大学教授)