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(2001年1月30日付)
おびただしい種類のメディア(情報媒体)が、私たちの生活空間にあふれている。用心しなければ、どの媒体が何を伝え、そのうちどれが事実に基づいたメッセージであり、どれが真っ赤なウソであったか、ごちゃまぜになる。
それでいて、あちこちから情報が入ってくるから、何でも大体わかっているような錯覚に陥っている。物事について、とことん突き詰めて実態や真偽を判別するゆとりがない。
▼情報氾濫(はんらん)の中で浮遊状態の不安
市民が社会の中で、それぞれに価値判断をし、責任ある役割をはたしてゆく。民主主義のしっかりした基礎は、そこにあるだろう。メディアの驚くべき多様化と生活への浸透(しんとう)、技術革命も、本来は右のような民主社会の発展軌道をつくるためのものである。
結果はどうか。市民の多くが、情報の氾濫の中で、自分の位置さえ定かでない浮遊状態の不安を感じている。いくらかでも時間をかけて何かを考えようとすれば、そんな時に限ってケータイが鳴る。通勤電車でチラリと見る週刊誌中吊(なかづ)り広告のどぎついタイトルが、その人のいっときの世界観さえつくってしまう。
今日の日本社会の底でカチカチ音を立てている時限爆弾のような危険は、ここにこそあるだろうと、私は考えている。メディア環境が豊かになればなるほど、メディア総体としては市民へのメッセージ力を失ってしまった。
国民の意思をある方向に統一することではない。要は、世界、日本、この社会が、あるいは自分が今どんな場所にあって、その方向にはどんな危険と希望があるかを伝える含蓄深い情報である。多くの人の心に、この世の地平の広がりを思い起こさせるような、勇気を持った報道である。
インターネットやケータイがどれほど高度化し、普及しようと、ここに記した社会的機能を期待できるメディアは、結局、新聞をおいて他にあるまいと私には思える。テレビという巨大報道メディアがあり、現代市民の大多数は世の中についてのイメージをTV映像から得ているらしいから、むしろ、新聞とテレビはメディアとしてはたす役割が異なると言ったほうが適切かもしれない。
▼新聞にジャーナリズムの真髄発揮を期待
活字の情報は、受け手側に、文字の羅列(られつ)の中から意味を組み立て、自らイメージを築くという知的活動を強いる。それは「考える」ということと同義だ。数百万、数千万の読者が、永田町政治の腐敗や日本経済の不活性の真因について暫時でも沈思黙考する。そこで考えたところを家庭で、あるいは友人と語り合う。基本テキストは新聞である。
こんなことを言うのも、日本の活字メディアに自信と活力の喪失(そうしつ)が著しいと私の目に映るからだ。
「新聞は読まれなくなった」と言われて久しい。人々はテレビ番組とスポーツ記事、さらに多少の生活の便利のためにのみ新聞を購読するのかもしれない。
逆に言えば、その時どきに浮かび上がる事象について表面をなぞるだけのような記事が多すぎ、それがいつもほとんど同じパターンだから(KSDスキャンダルを見よ)読者は早ばや見当をつけて、読む必要を感じないのではないか。
KSDと同類の「公益法人」は、この国に何百とあり、その大どころは特定省庁とそこにぶら下がる族議員の権益に結びついている。これを知らない政治ジャーナリストはいないはずである。どれか一紙でよい、ジャーナリズムの真髄(しんずい)を発揮して政界が真っ青になるほどの勇気ある、精緻(せいち)つくした取材に基づく文章のメスを、日本政治の腐敗地下構造に貫き入れてほしい。
これは新聞の可能性の一例にすぎない。現代の多様なメディアの過半は、何のことはない、娯楽と生活便利情報の取次ぎ業である。メディアの本来の柱である新聞ジャーナリズムが「an・an」や「B−ing」の世界に活路を求めすり寄って行くなら、日本は本当に国際社会の現実から浮遊し、市民の不安はいよいよ拡大し、悪徳政治家たちはよく眠るであろう。