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(2003年10月21日付)
先進国の国内政治は、貿易問題の解決を経済合理性から程遠いものにする。例えば、レガシーコスト(過去から受け継いだコスト=基本的には退職者の年金・医療保険等のこと)を抱える米鉄鋼産業の対処は景気や雇用に直結するが、選挙接戦州のウエスト・バージニア、オハイオ等の票確保を主目的とした、その場限りの対処しか行われない。
日本やEU諸国と違い、米国では勤労者世帯への公的な医療保険や年金制度が存在しない。それを企業が負担する。現役従業員と企業が負担する積立金と退職者への支給額とのギャップが年々増え蓄積されていく。これがレガシーコストだ。
労使交渉のほとんどが年金と医療保険といっても過言ではない。企業側は退職者及びその家族へ傾斜年金及び医療保険の生涯給付を約束させられる。つまり、約14万人の現労働者に加え、退職者や解雇者分を含めると全体として、現労働者数の2倍から3倍もの年金と医療保険を企業が負担するのだ。よって、合併して規模の合理性を追求しようにも、レガシーコストが大きすぎて意味をなさない。米鉄鋼業のような成熟産業が抱えるこの構造的な問題は、産業の国際競争力に大きく影響する。
米鉄鋼業の生産性は決して低くはない。参入障壁の低い(全体の約4分の1が輸入)自国市場で、強力な外国参入組を相手に競争力のある価格を維持している(米国の1人時間当たりの生産量は80年から2000年の間に2倍以上に伸び、日本よりも高い値だ)。だが、いくら規模を縮小して人員を削減しても、鉄鋼業界が背負う年金と医療費は高くなるばかりだ。
鉄鋼産業はきわめて資本集約的で、米国以外では国家重点産業と位置づけ政府補助金も多い。固定費がトン当たりの製造コストの3割から4割を占めるため、かなり安く売っても収入が固定費の一部を補うかぎりは経済的である。
しかも、多くの国では補助金による過剰投資とカルテル容認で価格を維持するため、慢性的な供給過剰状態が続いている。この過剰分が自国市場へ流れ込み、米鉄鋼産業は撤退を余儀なくされ、労働者は82年の約46万人から14万人へ激減した。
この構造的問題に、米政府は正面から取り組むことを避けてきた。例えば今年3月、ブッシュ政権は国がレガシーコストを肩代わりし鉄鋼産業の競争力を長期的に高めるという選択肢より、米通商法を使い、自国の産業に大きな損害を与える輸入品に緊急関税をかける方法を取った。
これは世界から非難を浴びた上、緊急関税はし烈な低価格競争からの一時的な救済措置にしかならず、ユーザーである自動車や工作機械等の企業のコストも引き上げ、関連産業の競争力まで失わせてしまう。
元政府高官は「関税という安易な策より、国が鉄鋼産業のレガシーコストの一部を肩代わりする方が接戦州の鉄鋼労働者に直接アピールできる上、産業も再生可能なのに」と憤る。
もちろん、ブッシュ政権にとっては鉄鋼労働組合の機嫌をとるのが目的だが、米国は産業政策の否定という信条ゆえに、長期的に意味をなす解決方法はとられず、構造的問題は依然残されたままだ。産業側も「レガシーコストの負担が減れば合併も可能になり、競争力も回復するのに」と嘆く。
農業問題で譲歩ができず決裂したWTO(世界貿易機関)閣僚会議でも、本来ならば米国や日本などの自由貿易推進国が指導力を発揮すべきなのだ。今こそ国内政治や保護主義に立ち向かい、世界自由貿易を経済合理性の面から強く推進する指導力が求められている。
(経済戦略研究所<ESI>上級研究員)
むらかみ・ひろみ 上智大学理工学部卒。米国でMBA取得後、仏国商科大学院交換留学を経て米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)にて国際経済及び戦略論で修士号取得。CSIS(戦略国際問題研究所)にて元大統領補佐官ズビグニュー・ブレジンスキー氏の助手を務める。1999年9月より現職。政策海外ネットワーク(http://pranj.org)代表。