【Seikyo Media Page】Copyright (C) 1997-2000 by The Seikyo Shimbun.



アジア報道の窓

連載コラム
「アジア報道の窓」 永井 浩

【4】


ベトナム戦争終結25周年に想う
新しい日越の交流の芽を見守りたい

(2000年4月11日付)


 「サイゴン陥落」によってベトナム戦争が終結して四月三十日で二十五年。それを 機に、久しぶりにベトナムに関する報道が目立った。

 ▼勝者の挫折と敗者の経済繁栄

 勝者のベトナムは戦後、南北の社会主義統一の失敗とカンボジア出兵によって経済 がどん底状態におちいった。一九八六年からはじまったドイモイ(刷新)政策で市場 経済が導入され、高度成長の軌道に乗ったものの、同時に、貧富の格差の拡大、共産 党幹部の腐敗、若者の共産党離れなどが進み、さらに九七年以降のアジア経済危機で また経済が低迷している現状が報告された。

 敗者の米国は、「ベトナム症候群」といわれる自信喪失の時代をへて、現在、空前 の経済繁栄を謳歌している。ベトナムとは九五年の国交回復以来、経済、軍事面での 関係強化が進んでいるが、ベトナム戦争については、サイゴン陥落二十五周年を迎え て「正義か罪かの論議が再燃している」(朝日新聞・五月一日)という。

 では日本とベトナムとの関係はどうか。日本政府はサイゴン陥落まで終始、米国の ベトナム政策を支持し、米軍の多くは沖縄をはじめとする在日米軍基地からベトナム に参戦した。これに対して、米軍のベトナム撤退を求める国際的な反戦運動に呼応し て、日本の市民や学生も「ベトナム反戦」に立ち上がった。しかし、戦争終結ととも に日本におけるベトナムヘの関心は急速に失われてしまった。今回の一連のベトナム 報道でも、わたしの知る限り、ベトナムヘの投資問題以外に両国関係にふれたものは 見当たらなかった。

 ただ、報道されないからといって両国間の交流が進んでいないわけではない。一例 が、たまたまわたしの勤務校で四月二日に開催された「第一回・日越インタースピー チコンテスト」(同コンテスト日本実行委員会主催)である。

 コンテストには全国の予選を勝ち抜いた在日ベトナム人六人と日本人十六人が参 加、それぞれ日本語とベトナム語でさまざまなテーマについて自分の考えを述べた。 スピーチはどれも興味深く、こころに響くものばかりで、すべてを紹介できないのは 残念だが、たとえば「夢」を語ったグエン・レー・ティ・トゥー・ハーさん。

 ▼緒についた普通の人々による交流

 彼女は八年前、難民として滞在していたフィリピンから来日、夜間中学で勉強した あと働きながら定時制高校で衛生看護を学んだ。いずれ祖国に帰り、一人でも多くの 貧しいベトナムの子供たちが学校に行けるようにしてあげたいという「夢」を支えて くれているのは、夜間中学で自分を孫のようにかわいがってくれた年輩の日本人同級 生たちのやさしさと勉強への真剣な姿勢だという。

 また、ベトナム語の参加者は、大学でベトナム語を学んでいる学生だけでなく、会 社員、主婦、ベトナム料理店店員、教員など幅広い層におよんでいるのが印象的だっ た。主婦のひとりはベトナム語学習の動機として、里子として資金援助をしているベ トナムのこどもとの文通のためと語った。

 この種のコンテストは日本で初めての試みのため、聴衆の数が心配されたが、用意 された百の椅子はほぼ満席。ベトナム語と日本語で両国の文化の違いなども指摘さ れ、それぞれのスピーチに対して、客席のベトナム人と日本人からは拍手と笑いが絶 えなかった。

 審査委員長の川本邦衛・杏林大学教授は「ベトナムと日本との関係が近くなったあ らわれであり、コンテストは大成功」と評した。

 ここには、ベトナム戦争時代とはちがった、新しい両国民の交流の芽が育ちつつあ ることがうかがえる。

 「当時の若者にはベトナム戦争を通じて『日本と世界が見えた』」(朝日新聞・五 月一日)つもりだったかもしれないが、それは冷戦体制のなかでの政治的プリズムを 介してにすぎなかった。一人ひとりの普通のベトナム人と日本人同士のこころのふれ あいや言語、文化をつうじた、真の相互理解への努力はやっと今、始まったばかりで ある。

 メディアは、そうした動きも大切に見守ってほしい。

(神田外語大学教授)