
(2000年5月30日付)
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時代の節目に“いけにえ”としての教団叩き 伝統宗教と新宗教では著しい二重基準 野村 “徴(しるし)”をつけられ差別される存在に追いやる 村上 反封建制キャンペーンがなし崩しに転用 |
矢継ぎ早に生じる宗教的現象に対して、混乱するばかりの宗教報道。今回は『近代 ジャーナリズムの誕生』の著者で、逸脱(いつだつ)行動論やメディア論の研究者で ある村上直之氏と、本紙第四火曜日付に「宗教報道の社会学」(全六回予定)を連載 中の野村一夫氏に、宗教報道の本質について語り合ってもらった。
野村 まず最初に、この種の問題を論じるさいの「眼差(まなざ)し」を確認して
おきましょう。ふつう宗教を論じるときには二つの立場しかないみたいな形になって
しまいます。信じる立場と信じない立場です。これに対して私はあえて社会学者とし
て論じたいのですが、「社会学の眼差し」というと一般の人にはなかなか理解しても
らえないところがあります。
しかし、もともと社会学は宗教をどう捉えるかということで理論を鍛えてきたとい
う歴史がありまして、ウェーバーやデュルケムといった巨匠たちはみんな宗教現象と
格闘して独自の社会理論を立ち上げたんですね。信じる・信じないで言うと、信じる
人たちの世界はリアルであるということです。その、信じる人たちのいろんな振る舞
いがこの社会をつくっている。だから「カリスマ」とか「聖なるもの」といった非合
理なものを非常に重視して社会をみていくんです。こういう見方は日本の素朴な近代
主義的インテリにとってかなり縁遠い考え方のようです。
村上 社会は宗教現象であるとさえ言いますね。デュルケムの弟子で構造主義の祖 であるモースの考えでは、信じない人もじつは何かを信じているということになりま す。
野村 はい。それに対してジャーナリズム側の宗教への眼差しを考えてみると、今 にして今の状態があるというわけではない。やはりそれは長い歴史の中で構築されて きたわけです。連載では二回に分けて書きましたが、日本の場合、戦前と戦後は一貫 していると見るのか、かなり違っていると見るのかというのは、案外難しいと思うの ですが。
村上 信教の自由が獲得されたのは戦後ですけれども、ジャーナリズムの宗教に対 する眼差しについては実証しなければいけないので難しい問題です。しかし最近の森 首相の「神の国」発言に対してマスコミで批判が起こっているということは、これは 戦前にはありえないことですから、その意味では宗教報道は戦後に変わったといえる でしょう。
野村 と同時に、神道に対して宗教性を非常に薄くして一種の伝統文化として見る という発想自体は、報道側をふくめてじつは非常に多くの人たちが共有しているもの ではないかと思うんです。私自身はむしろそこに問題があると感じます。
村上 さて、国民国家を形成するときに何らかのスキャンダリズムが成立する必要 があるということを連載で指摘しておられますが、これはじつは私にとっても大きな テーマなんです。たとえばインドネシアでナショナリズムを始めるときには、ニャイ ダシマという、オランダ人の愛人を「毒婦」として苛(いじ)めつくすような物語が 展開しています。いわゆる「悪女もの」です。日本でも、高橋おでんとか、夜嵐お絹 とかもそうです。
野村 それらはもちろん実在の人物についてですね。
村上 そうです。それが後にフィクションになり、最後には戯曲化されるまでいく のです。で、これはイギリスでも同じなんですよ。ピューリタン(清教徒)とカトリ ックの熾烈(しれつ)な闘いの中で激しいパンフレット合戦が行われて、血で血を洗 うようなことをやっているのですが、それがいったん終息したあとに、今度はピュー リタンたちの中にいろんなセクトが出てくる。
その中に「ランターズ」という喧騒(けんそう)派をでっちあげて、これはもう本 当に性的にふしだらな集団だとキャンペーンされるんです。これは完全に政府サイ ド、その当時のクロムウェルの共和政府のもとにつくられるんです。人類学の用語で 言うとスケープゴート、つまり、いけにえの羊です。こういうセクトのスキャンダル が、どうも時代時代の節目に一つの政治的なパターンとしてあるのではないかと私は 思います。カリスマの逆が必要なんです。
野村 スティグマですね。徴(しるし)をつけられ差別される存在のことです。そ ういう意味ではスティグマ化というメカニズムが政治のプロセスの中で必要になって いて、つまり近代国家形成というようなはっきりした目標があって、そのために政府 が中心になって強い権力行使をしなければいけないということになると、やはりスケ ープゴートというかスティグマをつくりだすことが必要になってくる。そういうもの としてスキャンダルや宗教批判キャンペーンがほぼ有効に作動してきたということで すね。そうなると宗教報道、たとえば特定の教団批判キャンペーンなどは、かなり政 治的なものだということですか、本質的には。
村上 そう、本質的に。政治自体がまつりごとですから宗教的なものだと。そう言 ってしまうと何か簡単になってしまいますが。
野村 その結果として日本の場合ですと宗教に対するダブル・スタンダード(二重
基準)というものが「図」と「地」の関係――つまり絵と画用紙の関係ですね――そ
ういう形で構築されたといえると思います。保守的な政治構造と見合うような宗教は
「地」の宗教、つまり伝統文化と見なされ、それに対して明治時代の新聞によって淫
祠邪教(いんしじゃきょう)と見なされた、一般に新宗教と言われているような宗
教、しかも政治的にはかなりフリーであるところが「図」の宗教になっている。
「地」に当たるものが何かやるときには「事実」としてさりげなく言及されるので
すが、「図」に当たるものが何か言うときには「特定の意見」「特殊な思想」という
形で伝えられる。当然人びとは「図」を見るわけです。つまり人びとは絵を見るわけ
で、それが書かれた白い紙は見ない。そういうことがどんな言説でも必ず生じるので
すが、だから、一方で批判キャンペーンをやっているというだけが宗教報道ではなく
て、風物詩や伝統文化として描かれるような宗教についての報道もワンセットとして
捉えるべきなんです。
村上 賛成です、非常に。
野村 宗教報道を考えるときに、宗教を報道する人たちの眼差し、それからまた、 当然それに同調している読者の眼差しを問うことになります。そのさい二つの大きな 見方がマスコミ界にはあったと思うんです。一つは「踊る宗教」なんかのときに、か なり際立った反応を示した評論家の大宅壮一のような眼差し。それからもう一つは、 戦後民主主義を構築した市民派・市民主義の人たちの眼差し。戦後における報道側の 宗教観はだいたいこの二つの源流から発しているのではないかと思います。村上先生 は、大宅壮一的な宗教観がメディアの宗教報道の道筋をつけてきたと論じておられま したね。
村上 今もそうですけれども、戦後の新宗教報道は、封建遺制を打破しようという ことで、宗教を封建制の一部と捉える見方がそれらに共通していたわけです。とにか く合理的思考をまず啓蒙しなくてはいけないというところから反新宗教キャンペーン があった。その中で大宅壮一は宗教をすごい見事な金(かね)の収奪機構として強調 します。だから「教祖金豪伝」なんてインタビューをしたりします。それは今の宗教 報道の基本にも流れていて、それがまた一番受ける。
野村 それが古い宗教に向かわなかったというところが一つのポイントになると思 うのですが、お金の点では伝統宗教の中にも大きな規模を持っているものがたくさん あります。一時は国家によって保護された時期もあったわけですから。それが問題に されないということが問題だという気がします。
村上 それは宗教だけでなくて、たとえば生け花とか茶の湯の家元制度への反キャ ンペーンもそういう形の一環で、つまり反封建制なんですよ。そういう形で問題にな ったという文脈は見失ってはいけない。だけれども基本的に新宗教に向かったという のは事実です。つまり封建遺制批判というのがいつの間にか、なし崩しになって反新 宗教キャンペーンというところに収束してきているというのが現状です。
野村 そうですね。それが一貫していれば、それはそれで見るべきものもたくさん あると思うのですが、この点では市民派も左翼も同じで、自らのダブル・スタンダー ドにまったく自覚がないように思います。
村上 本質論をここで言いますと、ジャーナリズムを担うにはある一つの“信念”
がなくてはいけないんです。それは常に新しさを追うことです。つまり〈いま、こ
こ〉という眼差しのみで世の中を切っていくのが基本なのです。そうすると「現世が
すべてだ」という思想信念を持っていなければいけないということになる。私はそれ
を「現世教としてのマスメディア」と名付けました。
直進的でどこで切っても同じという、工業化の基礎をなす時間に生きるために、ニ
ュースが人間にリズムを与えている。つまり「いま」というものにアクセントを置
き、つねにわれわれの感情構造をリニューアルしている。そして欲望をリニューアル
し、更新していく。そういうシステムとしてジャーナリズムが成立したのだなという
のが『近代ジャーナリズムの誕生』における私の発見だったのです。つまり、現世教
の信者でなければジャーナリストではないというのが根底にあるわけです。
野村 それは本質的な話ですね。つまりそれを担えるのは大宅壮一的に言えば「無 思想人」ですね。そう考えると、宗教現象はジャーナリズムにとって本質的に苦手な 対象ということになるし、今を表現しているもの、つまり新宗教でも非常に突発的な 現象は「いま」を表しているわけだからそれはターゲットになりえるけれども、逆に 伝統宗教的なものはぜんぜんターゲットになりえない。「図」ではなく「地」のほう になって背景化してしまうという、そういう意味ではわりと整合性があって一貫して いるということですね。
村上 そう。私はこのごろ学生たちにミクロネシアやポリネシアの伝統社会の中に 生きている人たちがなんで退屈をしないかという話をします。退屈という感覚は、わ れわれの生きている直進的な時間の中にあるのであって、彼らには退屈という概念は ないのだと。それは、日々の海の、あるいは空の模様のそれぞれを読み取るという情 報の受け取り方をしている限り、退屈というのはない。
野村 退屈は近代特有の概念で、ニュースはそれにリズムをつけてきたと。
村上 しかしインターネット時代になって私たちはいま、過去の情報も現在の情報 も最新の情報もいっしょくたにして、まさに共時的に接しています。
野村 最近の学生さんと話していると、私が学生時代になじんだような音楽や流行 を今のものと並べて楽しんでますねえ。
村上 そうです。そういう新たな時間感覚が今日、地球規模で始まりつつあるんじ ゃないかな。そうなるとニュースという概念は近々、消滅するのではないかと予測し ているんです。
野村 『近代ジャーナリズムの誕生』に書かれていましたね。
村上 あの本は「書いた」というより「書かせられた」という感じが私の中にある んです。というのも、ジャーナリズムがいま終わろうとしているからこそ、やっと見 えてきたんですね。この日々の繰り返しの循環を与えていく、感情の更新、欲望の更 新というシステムが、いま終わりかけているからそれが見えてきたということです。 ですから今後「現世教としてのマスメディア」は終焉を迎えていくんじゃないでしょ うか。これが私の展望です。
野村 なるほど。そう考えると、近代主義の申し子だった宗教報道もいま大きな節 目にあるということですか。となると、このさいマスメディアにはその節目を自覚的 かつ賢明に乗り切ってもらいたいですね。つまり、神道も仏教も新宗教もキリスト教 も、そして一見あやしげな信仰集団も、同じ資格で「図」として報道され議論される ような新しい宗教報道、こんなものを期待したいです。
略歴 のむら・かずお 一九五五年大阪市生まれ。創価大学大学院博士後期課程修了。社 会学者。著書に『社会学感覚』『リフレクション』(以上、文化書房博文社)、『イ ンターネット市民スタイル』(論創社)など。現在、法政大学大原社会問題研究所兼 任研究員。むらかみ・なおゆき 一九四五年高崎市生まれ。高崎高校卒業後、京都大学教育学 部卒。京都大学助手を経て現職。主な著書に『花のおそれ』(誠文堂新光社)、『近 代ジャーナリズムの誕生―イギリス犯罪報道の社会史から』(岩波書店)などがあ る。