
(1999年9月25日付)
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世界を揺さぶるメディア統合の衝撃 人間主体の文化システムの構築は可能か |
英国からは日本でも名の知られたコリン・スパークス、ピーター・グッドウイン(メデ ィア制度論)、米国からはミルトン・ミュラー(デジタル文化論)、アイルランドのファ レル・コーカラン(テレビ論)、中国の周少普(新聞論)、その他、イタリア・カナダ・ ドイツ・南アフリカ・ロシア、それに日本からの私を入れると計十カ国から三十数名のメ ディア学者やソフト開発の専門家、ジャーナリスト協会関係者らが朝から晩まで三日半に わたり、地域特性と視点の違いのある発表とそれに基づく専門的議論を行った。
原爆とテレビは、二十世紀の二大発明だといわれる。
現在進行中の「情報革命」の人間生活への巨大な影響はそれらに勝るとも劣らないのに 、日本ではこの問題がデジタル産業、放送と通信の融合、二千年問題(Y2K)の議論に 象徴的なように、技術革新面が強調され、文化的アイデンティティやメディアによる社会 的正義の実現モデルの喪失といったことが深刻な討議議題となっていない。「統合」(c onvergence)は「全局面の融合・集中収斂(しゅうれん)」といった意味なの に、オーディエンス(読者・視聴者)の利益(市民益・公益)になる情報コンテンツとは 何かの議論がないのだ。
そのため、EU閣僚委員会(European Commission)は、テレコム 業者、放送事業者、通信機器製造業者、政府・立法関係者、経済団体、労働組合、個人有 識者など二百七十四の関係者からの公開聴聞を行い、一九九七年十二月三日、このパラダ イム変換の波をいかにして人間社会の進歩に結びつけるのかといった視点からの提言とし て『メディア統合緑書』(略称でConvergence Green Paper、正 式には『電気通信、メディア、情報技術とその規制に関する報告書』)を発表した。
これは「競争原理の推進」とその結果としての「資本の独走」と「内容の娯楽化」を背 景としたアメリカ型文化の浸透に対するEUの回答であった。しかしというべきか、案の 定というべきか、市場的淘汰(とうた)と人間の欲望を前面に押し出す戦略をすでに展開 していた主流メディアの多くは最初この提言の意味に気づかなかった。
が、この二年の情報通信態様の激変はこれを今日もっとも重要な情報ネットワーク構築 の指針として受け止めさせ、そこでの問題提起が着実に政治・経済を統合した枠組みでの 社会文化論の形成を促すようになった。
情報変革のビジネス的利用法が中心議題だから、倫理の向上が叫ばれても、性と暴力表 現の減少は起きるが、私たちのまともな社会的判断を可能にする情報も同時に消し去られ る。メディア・ネットワーク関連労組も、雇用確保を優先し、「統合」時代のジャーナリ ズムのあり方の議論に熱心ではない。このままでは世界中の「公的言論領域」が、スパー クスのいうように、電子「帝国主義者の私的意見の場」(imperialist,pr ivate sphere)になってしまいかねない。
とりわけ、インターネットによって提供される情報は、その受益者から見返り費用を直 接にはとりにくく、全体が活字媒体でいう「フリーペーパー」化する。広告提供者(スポ ンサー)への気兼ねから、社会運営の根幹にかかわる議論は回避され、双方向通信本来の 理想が実現しそうにない。出版もまた、放送界とおなじく、企画段階から外部プロダクシ ョン依存になり、少品種大量生産型が拡大し、少数意見・異見が流通しにくくなってきた 。
「統合時代の日本のメディア・コンテンツ」と題する私の発表をきいた欧米の学者たち からは日本でも同じことが起こっていることへの驚きがあった。かつてマクナマラなどの 米学界の俊英たちはメディア操作によってトンキン湾事件などをでっちあげ、政府のベト ナム戦略を誤らせた。学問は現実の市民生活に関与すべきだが、問題は知識の使い方であ る。
今日のメディア学者たちの重要課題の一つは「電子帝国」時代の巨大科学を民衆の眼で チェックすることであることを私は今度の会議で再確認することになった。(同志社大学教授)
略歴 わたなべ・たけさと 1944年愛知県生まれ。同志社大学大学院修士課程新聞学専攻 修了。京都産業大学教授を経て、現職。専攻はジャーナリズムの倫理、国際コミュニケー ション論。著書に『メディア学の現在』『テレビ―「やらせ」と「情報操作」』『メディ ア・トリックの社会学』『メディア・リテラシー、情報を正しく読み解くための知恵』な ど多数。