
(1999年8月7日付)
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“韜晦”戦術で非戦を貫く 日清、日露、太平洋戦時に様々な抵抗 |
外骨の生涯に3つの戦争が起こっている。日清・日露・アジア太平洋戦争である。
明治37年、日露開戦。当初、新聞は開戦賛成が支配的だった。『日本』『読売新聞』『報知新聞』が対露強硬論支持。『東京朝日新聞』も外部知識人の言を借りた形で開戦賛成論を報じた。開戦反対を唱えたのは『毎日新聞』と、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三のいた『万朝報』である。
しかし万朝報の主筆で経営者で、外骨のライバルでもあった黒岩涙香は、発行部数の低下と当局の言論弾圧を恐れて開戦賛成論に転じてしまう。幸徳ら3人は万朝報を去って『平民新聞』を創刊。彼等に理解を示していた外骨は、資金援助をしている。ここに外骨のすごさがある。
日本中が日露開戦に沸いている時、外骨は大阪で雑誌『滑稽新聞』を発刊し、官吏の収賄や悪徳業者の告発記事を載せて一躍人気を博していたが、「日露新聞」と題するページを設けて開戦論をからかっている。
権力を笑い飛ばしておちょくる、というやりかたは弱そうだが、実は強い。確かに外骨は、真正面から戦争に反対して反戦論を掲げてはいない。しかし、反戦を掲げた黒岩涙香がその後コロッと開戦に転ずる姿を見てきた外骨は、反権力を掲げながらいつのまにかするっと権力の側にいることの醜さを知ったのだろう。権力の正体を見抜いていた外骨の姿がここに見てとれる。
外骨は言論弾圧にあって最初に投獄されたのが、22歳の時だった。外骨は後に、この経験があってこそ真のジャーナリストになれたのだと書いている。明治末、幸徳秋水ら12人が大逆事件で死刑に処せられた。冤罪である。このことは外骨にとって大きな衝撃となった。
だが、いかに自由にものが言えない時代であっても、ジャーナリストは生きて表現しなければならないと痛切に思ったはずだ。韜晦(とうかい=自分の本心・正体を意図的に隠し、相手をくらますこと)という言葉があるが、まさに外骨は権力に対し反権力ではなく非権力であり、反戦ではなく非戦という姿勢を採ったのだ。この姿勢が生涯を通じての外骨の表現方法を貫いたのである。
会長に徳富蘇峰、理事に柳田国男、折口信夫らが名を連ね、三千人以上の文学者、ジャーナリストが戦意高揚の渦の中で戦争を肯定し、活動を展開した。外骨はそこに一切背を向けた。外骨の戦争への批判は、沈黙という消極的な姿勢ではあったが、それがせめてもの外骨の反骨精神であった。いかに無念な思いを秘めて多摩川で釣りをしていたか……。
だがこの時、外骨は何もしなかったわけではない。外骨はそれまで築いた人脈を駆使し、全国を歩いて、日本の近代の新聞・雑誌を蒐集し、東大に明治新聞雑誌文庫を創設して保存した。民衆の手で記録した新聞・雑誌こそ、権力が何をやってきたかの歴史の証人である。それを知っていた外骨は、黙してもジャーナリストとしての仕事を果たしたのだ。外骨の先見の明を思い知らされる。
その当時には奇人・変人と言われながら、どういう思いで日本中を歩いたのか。それを思うと私は胸が熱くなる。戦後、外骨は息を吹き返したように『アメリカ様』を書き、皮肉にも敵のアメリカによってもたらされた民主主義を喜ぶ一方、軍や官僚、新聞の戦争責任を痛烈に批判した。(フリーライター)
略歴 さこぐち・さなえ 1949年香川県生まれ。財田川事件や人権と報道、原発などの記事を新聞、雑誌に掲載。同県出身のジャーナリスト宮武外骨を研究するグループ「ぐわいこつふあんくらぶ」の会長。