

(1999年6月26日付)
|
“第2のキャパ”と呼ばれた報道写真家 醒めた精神で国際的視野から日本見つめる |
岡村昭彦はベトナム戦争の悲惨な現実を世界の人々に伝えて大きな衝撃を与え、内外の数々の賞を受賞して、“第二のキャパ”と呼ばれた国際ジャーナリストである。そして、ベストセラーになった『南ヴェトナム戦争従軍記』の著者でもある。
その人物評を一言でいえば、「戦争を生きたジャーナリスト」だということになろう。次のようなエピソードが、そのことをよく表しているように思える。
戦場でのことである。政府軍兵士が二人の捕虜にカービン銃を向けると、すかさず岡村昭彦はその捕虜のうしろにまわってカメラをかまえ、「撃ってみろ! おれはジャーナリストだ! ベトナムの政府軍が武器を持たない人間を殺したと、世界中にニュースを送ってやる!」と絶叫するのだ。すると、その兵士は静かに銃口を空に向け、しきりに「殺すつもりはなかったんだ」と彼に謝る。その兵士の言葉には、自分の身の危険をかえりみずに二人の捕虜の命を救おうとした岡村昭彦に対する信頼、あるいは親愛の情がこめられているように感じられるのだ。
このような彼の振る舞いは、“非当事者の原則”に立つ従来のジャーナリズムからすれば、きわめて逸脱した行為とみなされるにちがいない。ここでの彼はジャーナリストであるまえに、一人の人間として振る舞っているのは明らかである。一人の人間として戦争に立ち向かい、その戦争と闘っているのだ。
彼にとって太平洋戦争は、自分の父親(海軍大佐)や兄たちが戦った戦争であった。そして、あと数年長引いていれば、自分が戦っていたはずの戦争であった。彼はその戦争の責任を一身に引き受けて、戦後を生きようとしているのだ。戦後史に照らしてみれば、それはきわめて希有な生き方だといえよう。
戦後史のなかでもっとも不可思議な光景は、戦時中に「鬼畜米英」を叫んでいた人たちが、戦後は一転して戦争の被害者、犠牲者の側に身を置き、「反戦・平和」を唱え出したことである。それは戦争の責任、彼のいい方を借りれば、「日本の歴史」に責任をもつ態度だったとはいいがたい。評論家の加藤典洋氏も、日本の戦後は「敗戦を正面から受けとめた戦後的思考」をもてなかったと指摘している。それにならえば、岡村昭彦はその「戦後的思考」を一身に背負って生きた人物だということになろう。
仮に、戦後の日本人が戦争の責任を引き受けて生きていたら、戦後はもっとマシなものになっていたかもしれない。が、残念ながら、そうはなっていないのだ。ただ、岡村昭彦だけは、その“戦後史の逆説”を生きた類(たぐ)い稀(まれ)な人物だということになろう。そこには、自分の父や兄たちが戦った戦争に対する贖罪(しょくざい)の意味がこめられているように思える。
確かに、ホスピスのルーツを欧米諸国に訪ね歩いた『ホスピスへの遠い道』は大変な労作であり、彼の『南ヴェトナム戦争従軍記』と並んで、戦後の傑作の一つに数えられるルポルタージュだといっていい。そこにあるのは世界から日本を見、日本から世界を見る国際ジャーナリストならではの視点である。
日本中の人々がマネー・ゲームに酔いしれていた高度成長の時代に、このような“醒(さ)めた精神”をもって、日本の現実をしっかり見つめて生きた人物がいたということを知るだけでも、目を見張る思いがする。そのような生き方は、「知ることは生きることであり、生きることは知ることである」という彼の人生哲学、思想からきているといっていい。
戦後という時代が終わり、その社会の枠組みや価値観がはじけたいま、戦後という時代を超えて生きた岡村昭彦という存在は、もう一度見直されなければならないはずだ。私が岡村昭彦についての本を書こうと思ったのも、そのような思いからであった。(評論家)
略歴 たまき・あきら 1940年、新潟県生まれ。早稲田大学卒。『新潟日報』記者を経て、現在はフリー・ジャーナリスト。著書に『言語としてのニュー・ジャーナリズム』『ニュース報道の言語論』など。昨年1年間、本紙に「週刊誌ウオッチ・ドッグ」を連載。このたび『「将軍」と呼ばれた男―戦争報道写真家・岡村昭彦の生涯』(洋泉社=写真)を上梓。