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寄稿論文

追悼 漢字研究 白川静さん

(2006年11月7日付)


96年の生涯を貫いた草莽の志

「庶民の団体」創価学会に深い理解


 現代アジアを代表する芸術家にして、ビデオ・アートの創始者の一人、故・白南準(ナムジュン・パイク)氏は、30年以上前、まさに、彼の名声が世界を駆け巡ったころ、親しい日本人編集者の松岡正剛氏に、こう語ったという。

 「日本の人は、『白川静』を読まなければダメだよ」

 日本が世界に誇る「白川静」を、何故、日本人が読まないのか?――日本文化に造詣が深かった、白ならではの静かな告発であったのかもしれない。

 漢字文化の世界的な研究者であった白川静氏(立命館大学名誉教授)が、10月30日、長逝した。享年96歳。「最後の碩学」と称されていた。

 本紙にも、2000年11月12日付のてい談(「トーク 2000」)や、04年3月2日付の文化欄インタビュー(京都での「文字講話」20回を終えて)で登場していただいた。

 てい談の取材の際に、聖教新聞について、「読みやすい。レイアウトもすっきりしているし、ルビ(ふりがな)が多いのが親切でええよ。読者の立場に立ってることがよう分かる」と高く評価されていた。

 今や、かつての不遇(本人はまったく意に介されず研究を続けられた)がウソのように、漢字を学ぶときには、「白川文字学」が必須と言われるようになった。文化勲章(2004年)も受けた。

 白川静氏は、福井市の貧しい商人の家に生まれた。明治43年のことである。そして、福井市立順化尋常小学校卒業とともに、「丁稚奉公」に出された。不憫さに、離別の時、父親が「栄養つくから」と牛乳を一本飲ませてくれたという。

 民政党代議士、広瀬徳蔵の事務所で、「玄関横の門番のような、書生のようなことをしていた」。

 広瀬は、漢籍に造詣が深く、その手紙は漢詩、漢文に溢れていた。その原典を調べることが、日課であった。広瀬宅には、膨大な漢籍があった。本を買えなかった白川少年は、それを書写し続けた。それが「白川文字学」の基礎となった。

 夜間の京阪商業学校(現・大阪府立芦間高等学校)から、立命館大学の夜間部に入った。時間が空くと、古書店に通い、そこでも漢籍を写した。古書店の主が、熱心な白川青年の姿に、許してくれたのだ。

 「順風」「エリート」という言葉とは無縁であった。その研究成果を世に問おうとしても、普通の漢字ではなく、甲骨文字や金石文が頻出する氏の文章を印刷することを、出版社が拒んだ。白川氏は、「ガリ版」の原紙を、自ら鉄筆で切り、何万もの貴重な資料を、「謄写版刷り」で発表しつづけた。

 「白川文字学」には「人間」があった。例えば、「愛」という字について、甲骨文字、金石文などの膨大な資料を渉猟しつつ、後ろを振り向きながら立ち去ろうとする人の体から、心臓が飛び出した形である、と白川氏は説明する。一つの文字に、生きる人間のドラマがあり、生活が見えた。

 高い評価を受けた『孔子伝』では、神のように扱われ、高みに祭られた孔子ではなく、挫折し、所を追われ、しかし、自らの信念を説き続ける「人間孔子」を書いた。批判が相次いだが、揺るぎはなかった。常に、草莽の志を持ち続けた方であった。そして、その視座から、「庶民の団体」創価学会にも、深い理解を示されていた。

 「人間は傷だらけの経験をせんと、精神や思想は後世に残らんもんよ」――筆者が最後に白川氏の自宅を訪問したとき、大きい目を開き、呵々大笑されていた姿が思い出される。

 (哉)