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(2006年7月18日付)
ウイグル妃の後宮外交 |
現在の中国国土の形が形成されたのは、今から250年前、清朝の乾隆年間である。前代の明は現在よりも領土は随分小さく、例えば東北地方、チベット、モンゴル、新疆ウイグル自治区も入っていなかった。
乾隆帝によって最後に併合された「辺疆」は、トルコ系ウイグル部であった。現在でもウイグル族は人口一千万人を抱え、中国の少数民族の中では一大勢力を誇る。
清朝によるウイグル併合前後、乾隆帝の妃となったウイグル人女性がいる。名を容妃という。容妃は、ホージャ家というイスラム宗教的リーダーの名門一族の娘であった。
清朝がウイグル部を占領した時、ホージャ家の中心的存在であった大小ホージャ兄弟は反旗を翻し、清朝支配に対して抵抗した。しかし容妃の叔父エスインを中心とした一派は、清朝と共存していく道を選んだ。エスインは、清朝大帝国の中で積極的に自分の位置を確立していこうと考えたのである。
他方の乾隆帝もまたエスインらを厚遇することで、ウイグル部を穏便に支配下に入れようとした。エスインらはホージャ家の中では直系ではなかったものの、宗教リーダーとしては、現地の民衆に十分な影響力を持っていたのである。
そんな中、ホージャ一族の女性が乾隆帝の後宮に入ることとなった。入内した年齢は26歳、と当時としては不自然なほど「姥桜」の域にあった。これには、ホージャ家側と清朝側の双方の配慮があったのかと思われる。
推測するに、ウイグル部と清朝の平和的友好関係の象徴として嫁ぐという重役、あるいはウイグル部の命運を担うという重役は10代のうら若き娘にはあまりにも過酷な重圧であると考えられたのではないか。
ウイグル部は、清朝にとってモンゴルのジュンガル部やロシア勢力との間の緩衝地帯の役割を果たす地域であった。乾隆帝と妃の関係とはすなわち、そのままウイグル部との関係を左右するものであり、乾隆帝とて平和を願う共通の目標に向かい、歩み寄れる知的な女性が望ましかったにちがいない。
そういった配慮からか、容妃は後宮の中でも特別にイスラム教徒としての習慣を尊重され、宮廷内でも満州の衣装を身に付けず、ウイグル族の民族衣装のままで過ごしたばかりか、豚肉なしの特別料理のため、専属料理人までついていた。皇帝が江南や泰山に旅する時には、兄のトルドともども兄妹そろって同行を許され、料理人も随行した。
時には宮廷の人々が共にウイグル料理に舌鼓を打つこともあったという。旅行先にはウイグル人サーカス団も同行し、中原では珍しいアラビア風の魔術が披露され、宮廷の人々を楽しませたのである。また皇城に隣接する場所にはモスクが建てられ、コーランの読経の声が届くように配慮された。
毎日コーランの音色を聞いて育った容妃にとって、これは大きな慰めだったにちがいない。これらの待遇は直接清朝のウイグル部に対する待遇を意味し、ウイグルの人々を安堵させた。乾隆帝と容妃は、男女の仲である以上に政治的コラボレーションの相手であり、容妃はその務めを立派に果たしたといえる。
たかが後宮の一女性とその役割を軽視することはできない。晩年には上から6位という高位まで上り詰めた容妃は、皇帝に頻繁に接する機会があり、そんな中で一族やウイグル部全体の意志や希望が伝えられたにちがいない。
男性たちは爵位を与えられたとはいえ、発言には煩雑な手続きを踏まねばならなかった。支配下の異民族の中で後宮に女性を送り込んだ民族は多くない。生き馬の目を抜く後宮に一族の女性を送り込むという決心は、その女性の痛みを伴う。容妃は女性たちの戦いの中でつぶされることもなく、高位まで出世し期待に応えたのである。
乾隆53年(1788)、宮中で28年間を過ごした容妃が死去した。享年54歳、子はなかった。近年、中国政府がその陵墓を調査したところ、白髪交じりの金髪女性の遺体が眠っていたという。
容妃とその一族は、かたくなな狭義的な民族主義を掲げるのではなく、多民族王朝としての清朝と友好関係を築くことによって、ウイグル民族という固有の伝統・民族文化を尊重することを保証されたのである。
民族や武力集団が騎馬で砂ぼこりを蹴り上げて駆け抜けていった北アジアにおいて、ウイグル族は現在でも他民族に呑み込まれることなく独自の文化を形成している。その秘密は容妃の中にも感じられる、柳が風に揺れるようなしたたかさなのではないだろうか。
(作家、中国歴史研究者)
略歴さいとう・えみ 1972年生まれ。大阪外国語大学中国語科卒業。96年、大阪の寝具問屋鐘忠(株)に就職、北京の捺染工場に派遣される。2000年、退社。現在はフリーランスで通訳・翻訳業の傍ら、清朝と北京の歴史をテーマに執筆を進める。