![]()
(2006年6月20日付)
燃焼し、壮烈に散った73年 |
日本音楽界の強力な牽引車のような存在だったマエストロが、またひとり世を去った。岩城宏之さんは個人的にもなにかと忘れ得ない方だったが、民音が主催する東京国際音楽コンクール<指揮>にとっても組織委員という重責を担われていた。
俗に「十年ひと昔」と言うが、昭和31年に外山雄三氏とともに岩城さんが日比谷公会堂でN響での鮮烈なデビューを果たしたのは「五つ! 昔」もまえのことだった。当時のN響は実に多くの日本作品を演奏して気を吐いていたが、その旗手となったのがこの両氏であった。日本の音楽界が国際舞台に進出する礎ともなった先覚者として、その名は記憶されるだろう。
岩城さんの指揮活動はオーケストラだけに留まらず、東京混声合唱団などでの活動を通しても日本の作曲家たちに新しい作品を生み出させ、それらを初演して積極的に紹介することに生命を賭けた。こうして私たちは初演再演を問わず、膨大な数にのぼる日本の作品を実際の音として耳にする機会をもつことができたのである。
しかも岩城さんは海外でもそれらの作品を自分のプログラムに組み入れることを忘れなかった。それは欧米諸国の主要なオーケストラへの常時的な客演だけでなく、メルボルン響ではシェフとして采配を振るった。こうした広い経験がオーケストラ・アンサンブル金沢をつくるうえでの貴重な糧となったにちがいない。
後年は次々に病魔に魅入られたが、不死鳥のように快復し、それさえも次のより大きな挑戦の原動力となった。頚椎の大手術から奇跡的な復帰を果たしてからは、それまでの大きな身振りを抑えた指示で楽員たちに確実な意思を伝える術を体得し、それとともに音楽の深みもいっそう濃くなったようだ。
指揮だけでなく、打楽器奏者としてタイコを叩き、文章を記せば軽妙洒脱、万人を唸らせた。ここでその経歴や肩書きは書き尽くせないが、日常の岩城さんは快活で茶目っ気たっぷりのナイスガイだった。それでも私は後年の岩城氏がこの日の近いことを悟っていたのではと感じられてならない。人に言えない焦りさえあったのでは、と思われる。燃焼し、壮烈に散った73年だった。
(札幌コンサートホール「キタラ」館長)
略歴まえ・かずお 1934年、福島県生まれ。58年、東京芸術大学楽理科卒。NHKのディレクターとして洋楽番組の制作に携わったあと、N響常務理事、サントリーホール総支配人などを歴任。東京国際音楽コンクール<指揮>実行委員。