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寄稿論文

中国古典帝王学の書『貞観政要』

(中央大学教授・妹尾達彦氏に聞く)

(2006年6月20日付)


対話から生まれる普遍性

知識人集団の主張を保証づける側面も


 古来、帝王学の書として読み継がれてきた『貞観政要(じょうがんせいよう)』。唐の時代に「貞観の治(ち)」と呼ばれる最高の治世を出現させた第2代皇帝・太宗(李世民=りせいみん)の政治についての記録である。日蓮大聖人も常に座右に置かれ、文永7年(1270年)には御自身で書写され、流罪地・佐渡にあっても「外典書の貞観政要すべて外典の物語……」(御書961ページ)と、同書の送付を依頼されている。ここでは、唐の歴史に詳しい妹尾達彦・中央大学教授にその魅力を語ってもらった。

 (聞き手・野山智章論説委員)


東アジア漢字文化圏に広く受容

 ――古典として名高いのですが、現代の日本人には、なじみの薄い書でもあります。

 『貞観政要』は、唐王朝の第2代皇帝・太宗が、貞観年間(627〜649年)に、特定の臣下とかわした政治問答を記録した書です。8世紀前半に、国史の編纂に従事した呉兢(ごきょう)によって編纂されました。君主の道を論じる第1巻から、君主への直言の重要性を説く第10巻まで、一貫して君臣の心得が書かれています。為政者の政治教科書として広く読まれ続けてきました。

 ――その魅力とは何でしょうか?

 普遍的な政治理念や処世術が、なまなましい具体的な事例をともないながら説明されている点にあります。どこでもいつでも通用する、乱世を生き延びる指針を学び取ることができる書でもあるために、多くの人々によって読まれ続けました。また、唐初の政治史や政治文化に興味をもっている研究者にとっては、7世紀前半の唐朝創業時の激動する政治状況がうかがえるので、ありがたい史料になります。

 ――この書には、二つの側面があると言われますが……。

 ええ、一つは、よく知られているように、太宗という為政者が、臣下との議論を通じて政治の心得を学び論じる、帝王学の書としての側面です。

 そのため、東アジアの漢字文化圏の為政者や知識人に広く読まれつづけて現在にいたっています。契丹族の遼王朝や女真族の金王朝、満洲族の清王朝などの非漢族の政権の君主も愛読しましたし、朝鮮の各王朝の君主や日本の天皇も、帝王学の書として読みました。

 また、現代社会の経営者や管理者、組織のリーダーにとっては、組織運営の要が、優れた人材の確保にあると説く『貞観政要』は、経営や運営のマニュアルとしても使える具体的な内容に満ちています。現代では、帝王学の書と言うよりも、「リーダー学の書」として有名だと思います。

玄宗期ルネサンス運動の“産物”

 ――もう一つの側面とは?

 中国における知識人集団の自己主張を保証づける書という側面です。その背後には、中国史特有の知識人集団の存在があるのです。

 『貞観政要』は、帝王学の書であると同時に、皇帝を囲む知識人集団が、専制権力をもつ皇帝が恣意的に権力を行使しないように歯止めをかけ、皇帝の政治を批判できる制度上の存在を論拠づけるために編纂した書でもあります。

 編纂した呉兢は、天子の過失を諫める諫官(かんかん)でした。玄宗を諫める勇敢な文章が、何篇か残っています。“諫言(かんげん)を聞き入れない天子は失政する”と繰り返し説く『貞観政要』は、呉兢に代表される知識人集団の自己主張の書でもありました。

 中国のような強い君主制度のもとでは、知識人は常に不安定な存在であり、皇帝の意思によって失脚し左遷(させん)させられる危険がいつもあります。それに対抗するためには、皇帝をも納得させることのできる論理にもとづいて、皇帝権力の恣意的な行使を制約する必要があります。『貞観政要』は、皇帝制度のもとにおける知識人集団の抵抗のよりどころを示す書でもあるのです。

 ――やはり、よりよく理解するためには、編纂された時代背景にも注目しなければなりませんね。

 その通りです。『貞観政要』は、太宗時代の問答集ですが、ただし正本が完成して献上されるのは、第6代皇帝・玄宗(在位712〜756年)の時、8世紀前半のことです。この間には、中国史上唯一の女性皇帝・武則天の周王朝(690〜705年)によって唐朝がいったん断絶し、武則天後に再び唐朝が復活するという、政治上の大変動があります。

 『貞観政要』は、太宗の貞観年間の政治の理想を語ることにより、武則天時代の存在を否定して唐初の文化を復活させようとする、玄宗期のルネサンス運動の一環として編纂された書でもあります。

 当然、玄宗を太宗になぞらえることで、政治の安定と、諫官としての自らの存在をともに主張する、編者・呉兢と当時の知識人集団のしたたかな戦略があります。

日本の文化土壌での仏教の役割

 ――この書は、日本の政治文化にも大きな影響を与えてきました。北条政子が自ら邦訳を命じて珍重し、徳川家康や明治天皇も愛読したと伝えられます。

 日本の受容の特色は、『貞観政要』のもつ上記の二つの側面のうち、為政者の帝王学という側面が重視され、もう一つの側面である、知識人集団の自己正当化という面には、重きがおかれなかった点だと思います。

 その一番大きな理由は、中国には皇帝の存在とともに、皇帝を支える文人の知識人集団が官僚として存在したのに対して、日本には、天皇を支える官僚制度が十分には発達せず、強固な文人の知識人集団も存在しなかったからだと思います。中国の文人官僚にあたる知識人層は、日本では、武士や僧侶にあたり、知識人層が、価値観を共有する一つの集団を構成するまでには至らなかったと思います。

 日中間のこの違いは、試験合格という業績によって人材をリクルートする人材登用法が、中国では8、9世紀には科挙として定着し始めるのに、日本では明治維新後の19世紀における近代官僚制度創設まで生まれなかったことに、端的にあらわれています。

 ――その意味では、鎌倉幕府の最高権力者に『立正安国論』を提示し、敢然と国主諫暁を果たした日蓮大聖人の存在は、日本史に異彩を放っています。

 そうですね。時の権力者に対峙できる知識人集団は、日本の場合、仏教教団しかなかったということだと思います。科挙制度がなかった日本では、仏教僧が中国における儒教知識人の役割を担ったのかもしれません。ただ、(日蓮のように)為政者への諫言を本当に実践しようとすると、日本では命がけの覚悟が必要だったでしょう。

 為政者の過ちを批判することで昇進できる中国の諫官制度は、為政者の権力に対抗できる知識人集団の存在なくしてあり得ません。つまり、日本の文化的土壌においては生まれ得なかったがゆえに、『貞観政要』は、日本の知識人には、特別に魅力的だったのではないでしょうか。

衝突と妥協―激しい格闘の記録

 ――3月21日付の本紙では『宋名臣言行録』について取り上げたのですが、読み物としては『貞観政要』のほうが面白い気がします。

 それは、朱子の編纂した『宋名臣言行録』が、当時の歴史書や随筆、墓誌銘などにもとづいてまとめているのに対して、『貞観政要』は、皇帝と知識人とのダイアローグ(対話)だからではないでしょうか。熱のこもった議論の中に、読者も招かれるような臨場感をもっていることが、特色だと思います。

 ――たしかに異なる意見のぶつかりあいの中から解決策を模索していく、ダイアローグの魅力に満ちていますね。

 たとえば、「帝王の事業では、創業するのと、既に得た成功を保持するのと、どちらがより難しいのか<帝王の業、草創と守文と孰(いづ)れか難(かた)き>」という、太宗の発した問いをめぐる有名な君臣問答です。

 創業の名臣・房玄齢(ぼうげんれい)は、苦しい戦いを勝ち抜いて、やっとのことで国家を創業できた困難を顧みれば、創業の方が難しい、と答えます。それに対して、同じく太宗を支える名臣・魏徴(ぎちょう)は、腐敗した前政権の倒壊は天と人民の望むところなので、天と人民の望みさえ得れば創業は難しくない。むしろ、創業後にも為政者が慢心することなく、新政権への人民の期待に応える守成の政治こそが難しい、と答えます。

 対立する意見を前に、太宗はこう結論づけます。房玄齢の見解は、創業期の戦争で私とともに苦労した経験があるからこその考えだ。魏徴の見解は、現政権で政治をつかさどり、私の慢心によって国家が滅亡するのを心配するものの考えだ。創業の困難は今や過去のこと、これからは、守成の困難こそ、臣等とともに慎重に考え抜かねばならない問題である、とまとめるのです。

 この場面から、異なる議論をさばく太宗の明晰さが浮き彫りになり、臣下に対する太宗の心遣いがわかります。そして、読者は、太宗に賛成して、守成の困難こそが、やはり本当に難しいのだ、と納得するのです。

 ――ところで、太宗は、ある種のトラウマを抱えて帝位に就いた人ですが……。

 そうです。太宗は、皇太子の兄を殺して皇帝位に就いた暗い経歴をもっています。兄を殺す際に弟も殺害し、皇帝だった父親を幽閉して強引に自分が即位するのです。太宗にとって、後の歴史家が自分のことをどう評価するか、ということは恐ろしいほど心配だったに違いありません。そのことが、『貞観政要』のドラマチックな構成を生み出していると思います。

 この太宗のトラウマを目の当たりにした魏徴などの臣下たちは、諫官の批判に耳をかたむける名君という太宗像をつくりあげる役割をになうことで、自らの立場をも築いていくのです。『貞観政要』は、君と臣の意向が衝突し妥協し合う、激しい格闘の記録ともいえると思います。


略歴

 せお・たつひこ

 1952年、広島県生まれ。立命館大学文学部卒業、大阪大学大学院博士課程修了。ハーバード大学招聘研究員、筑波大学歴史・人類学系助教授を経て現職。著書に『長安の都市計画』(講談社)などがある。