

(1998年8月1日付)
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文春に“有罪”言い渡した東京高裁 マスコミが創り上げた虚構を解体 三浦和義さんに静かな環境を |
一九八一年のロス銃撃事件で殺人罪に問われていた貿易会社「フルハムロード」元社長、三浦和義氏は七月一日、東京高裁(秋山規雄裁判長)で無罪判決を受けた。三浦氏の拘禁生活は約十三年に達していた。三浦氏無罪は同時に、この国のほとんどのメディアに対する有罪判決であった。
三浦氏が東京地裁(松本昭徳裁判長)で有罪判決を受けた九四年三月三十一日は、私が共同通信を退社した日であった。その日、自由の身になったはずの三浦氏と再会して京都に向かい翌日から大学で教員生活を始める予定であった。
松本裁判長は銃撃実行犯とされたO氏は無罪で、「氏名不詳者による銃撃」という珍妙な論理で三浦氏に無期懲役を言い渡していた。あれから四年三カ月。秋山裁判長はマスメディアが創り上げた虚構を解体してくれた。世論の大半が三浦氏を有罪視している中での勇気ある判決だった。
しかし、検察は不当にも最高裁に上告した。O氏については上告せず無罪が確定した。自らが否定してきたはずの「氏名不詳者」との共謀という筋書きに鞍(くら)替えしての上告である。最高裁でひっくり返る可能性は限りなくゼロに近い。
三浦氏は七月十三日東京・お茶の水の中央大学駿河台記念館で開かれた人権と報道・連絡会(山際永三事務局長、ファクス03―3341―9515)の定例会で講演した。連絡会では多くのメンバーを動員して、悪質なメディアに写真を撮らせないように努力した。三浦氏と午後四時すぎに、記念館内で会った。
判決の当日は大学の講義があって傍聴できなかった。拘置所で何度か面会しているが、自由になった三浦氏と会ったのは初めて。車を降りた三浦氏とがっちり握手した。「本当によかったですね」と声を掛けた。「浅野さんには最初の頃からお世話になりました」。いつも礼儀正しい人だ。控え室で約一時間話した。
「拘置所では二畳の部屋で、風呂は夏だけ週三回、普通は週二回。運動は三十分だけで、しかもすごく狭いところだ。獄中では靴を履いたことがないので、出てから足にいっぱい血マメができた。足の爪がすべて出血して黒くなった」
「四百八十七件のメディア民事訴訟を起こしたが、新潮社の弁護士が一番優秀で手強かった。憲法の表現の自由などを持ち出して、全面展開する。うちの新聞を信用して読む読者はいないというような主張をして、裁判官に『そういうことを言うのは自殺行為だ』と叱られた『東京スポーツ』とは全然違う」
定例会の講演では対メディア訴訟について、「悔しさが原点。メディア側が名誉毀損でないことを証明しなければならない。日本ではメディア側と対等な関係になれるのは、民事訴訟しかない」と語った。
そもそもの発端は、八四年一月から『週刊文春』が連載した「疑惑の銃弾」だ。三浦氏に対し、保険金目当てに妻の殺害を計画、友人に銃撃させたという仮説を立てて糾問した。やがてほぼすべてのマスメディアが参加。過去のプライバシーも含めて「情報の銃弾」が三浦氏と家族に浴びせられた。
警視庁は八四年九月、殴打事件で三浦氏と元女優を逮捕、八八年十月には銃撃事件で三浦氏とO氏を逮捕し、ロス疑惑報道を追認した。
ロス疑惑報道は戦後ジャーナリズムの大きな転換点となったと思う。メディアが独自の取材(調査)によって「もう一つの司法機関」となることができるということになった。メディア・リンチ(私刑)が司法当局によって容認された。これにより、後のオウム報道など、被害者のプライバシーを暴く低劣な報道がまん延したのである。『週刊新潮』などによる一連の創価学会バッシング報道も然りである。メディアは本来の任務である権力監視を怠り、一般の犯罪で犯人探しに懸命になってきた。
私はその年の九月に出した最初の本、『犯罪報道の犯罪』の前書きで、ロス疑惑報道は調査報道とは全く無縁の無責任な報道だと訴えた。私の本が一つのきっかけになって人権と報道・連絡会が誕生した。
三浦氏は順調に成長していた貿易会社を失った。三浦氏の長女は三浦氏の両親が引き取っていたが、あるワイドショーが八五年九月、「これが三浦の長女が来春入学する小学校です」と放送。小学校へ上がる前に九州に「疎開」せざるを得なかった。長女は四年後に関東に戻ったが、さまざまないじめに遭(あ)った。彼女は全くの白紙の状態から、本や裁判記録を読んで「事件」を調べ、父親の無実を確信して最も強力な支援者になった。
私は九四年十一月に弁護団、山際永三氏、三浦氏の長女らとロサンゼルスの現場で調査し、三浦氏の冤罪(えんざい)を確信した。現場を歩き、裁判を傍聴すれば、『週刊文春』が疑惑の根拠としてあげた「事実」のほとんどがでっちあげであると分かる。
「巨額の保険金」というが、生命保険金額は月収が百万円を超えていた人にとってごく平均的な額であり、保険金の約半分は海外旅行傷害保険から出ている。
また、妻を殺す動機は全くなかった。日本人カップルはあんな淋しい場所に行くはずがないと断定するが、三浦氏夫妻はTシャツのデザインにするための椰子(やし)の木とロスの高層ビルを背景にした写真を撮りに、現場に赴いたのである。
元女優が自白を維持して、実際に刑期を終えているという重い事実があるともいう。疑惑報道が過熱する中で、産経新聞記者などに「衝撃の告白」をした内容が真実とは限らない。警察に「上申書」を書かされて、逮捕されて「供述調書」をとられ、偽証罪をちらつかされて、身動きがとれなくなって服役せざるを得なかったのではないか。秋山裁判長は元女優の供述を「信用できない」と認定した。
裁判長は判決の中で、メディアが「根拠の検討が十分でないまま、総じて嫌疑を掛ける側に回った」「報道に接した者が最初に抱いた印象は簡単には消えない」と強調、証人の証言も報道に影響されていると述べ、極めて異例のペーパー・トライアル(新聞裁判)批判を展開した。
大メディアの記者たちは控訴審の審理をほとんど取材もしていない。一般市民の間で「なぜ無罪なのだ」という戸惑いがあるのは、メディアが裁判をきちんと報道してこなかったからだ。当時、ロス疑惑報道を展開したメディア関係者はほとんどが出世し、幹部となっている。メディア幹部たちは、人間として三浦氏に対応してほしい。文藝春秋の広報担当者が、「我々は三浦さんを犯人として報じたことはない」と逃げているのは情けない。
三浦氏は近く新居を構えて長女と暮らし始める。高齢の両親とも毎日のように会っている。本当によかったと思う。懲(こ)りない『フォーカス』はホテルのレストランで盗み撮りした写真を載せた。三浦さんが静かな環境を求める権利を奪う「報道の自由」などない。
七月十八日夜、東京近郊で三浦氏、山際氏と私の三人で話し合った。その模様は月刊誌『創』九月号に掲載される。
三人は、三浦氏による四百八十七件に上る対メディア民事訴訟で報道機関は反省を迫られ、改革への萌芽が出ていることを確認した。三浦氏は「今後は日本報道評議会を設置するための運動に全面的に協力する」と決意を語っていた。
人権と報道・連絡会は十一月二十一日に三浦氏、松本サリン事件被害者の河野義行氏、甲山事件の無実の被告・山田悦子氏の三人をゲストにしてシンポジウムを開催する。
これから「ロス疑惑報道の犯罪」が裁かれるのである。
略歴 あさの・けんいち 1948年香川県生まれ。慶応義塾大学卒。共同通信社社会部、外信部、ジャカルタ支局長を歴任し、94年4月から現職(文学部新聞学専攻)。人権と報道・連絡会世話人。著書に『犯罪報道の犯罪』『メディア・リンチ』など多数。ビデオ『人権と報道の旅』を監修。