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寄稿論文

中国古典の魅力『宋名臣言行録』

(東京大学助教授・小島毅氏に聞く)

(2006年3月21日付)


古来、為政者の必読の書

文治国家担った重厚な人材群像


 西暦960年から1127年、日本では平安時代の後期に中国を統治した北宋。現代の日本同様、文官優位の社会体制を有し、名臣と呼ばれる数多くの人材を輩出してきた。ここでは、『貞観政要』とならび、為政者の必読書として知られる名著『宋名臣言行録』の魅力をめぐって、小島毅・東京大学助教授にインタビューした。(聞き手・野山智章論説委員)


唐の『貞観政要』と双璧なす

 ――2004年、文化勲章を受章した中国古代文学・漢字研究の第一人者、白川静博士の著『回思九十年』には、「政治家だって昔は『貞観政要』や『名臣言行録』を読んでおった。だから無学な者は出てこない」という印象的な一文があります。かつては盛んに読まれたようですね。

 ええ。両書とも、日本で大変よく読まれました。ただ、『貞観政要』は唐のもの、『名臣言行録』は宋のものと、時代の差が両者の性格を分けています。

 唐の世に「貞観の治」と謳われる理想的な統治をした名君・太宗の時代を記したのが『貞観政要』。一方、『名臣言行録』は、朱子学を大成した朱子(=朱熹、1130〜1200年)が編纂したものに、数十年遅れて李士英という人が朱子に習って作った後編をまとめたものです。

 考えてみますと、『貞観政要』を中心とする唐の文化というのは、日本で奈良時代に律令制の導入の時から始まり、以後ずっと京の公家社会に残っていきます。天皇が御座しておられた京都の紫宸殿には、19世紀に至るまで「賢聖の障子」という屏風が置かれ、『貞観政要』の大臣たちが描かれていました。

 当然、知識としては、唐以降、中国がどうなったかを知ってはいたのでしょうが、『貞観政要』以降の宋の大臣を「賢聖の障子」には一切描いておりません。つまり、公家社会は唐風といいますか、唐王朝の時代で止まっているのです。

 一方、『名臣言行録』に代表される宋の文化は、武家が好んで摂取したもので、江戸時代の朱子学の隆盛も、武士たちが担い手になっているわけです。武家は宋風なのです。唐は軍事国家として栄え、宋は軍事的に弱かったゆえに文治国家となりました。日本では唐が公家、宋が武家に受容されていることは、皮肉な矛盾だと思っています。

 ――それでは武家が好んだ『宋名臣言行録』の特徴は何でしょうか。

 『貞観政要』と比較しても非常に均整がとれ、端雅である。しかし、長所は逆に欠点にもなります。“金太郎飴”のようで、どこを切っても同じような名臣ばかりで、個性がないと評する人もいます。この書が、江戸時代に広く読まれたのは(徳川幕府が体制イデオロギーとして採用した)朱子の編纂物という“ブランド性”があったということも見逃せません。

 『名臣言行録』は、能力のある官僚たち(能吏)の群像です。先ほど、「武家が宋の文化を好むのは矛盾」と申し上げましたが、能吏のお手本になる書物として、江戸時代や明治時代に日本で流行したのも、うべなるかなという気がいたします。

 もっと現在に近づけて考えていきますと、昭和40年代のいわゆる「昭和元禄」のように社会安定期の企業戦士にとっては、『名臣言行録』が聖典になりうるでしょう。そのような思惑から30年ほど前は褒めそやされていたわけです。

 それでは、先行きが非常に不明瞭な平成18年の今日において、一般の読者に『名臣言行録』がどう訴えかけるのか。逆説的ですが、安定したシステムにするためにこそ、こういうものを読まなければならないのだと思っていただけるかどうかですね。

社会改革を断行した王安石

 ――『名臣言行録』の中身について、具体例を紹介してください。

 まずは、第6代皇帝・神宗時代の宰相で、「新法」と言われる行政改革を推進した王安石(1021〜86年)です。

 王安石は革命的といってもよい政治・社会改革を断行しました。その意味から、日本の政界にも王安石ファンは多いと聞いています。ただ王安石は(20世紀になって高い評価が与えられるようになったが)中国においては、物議や非難のもとになる人間なのです。なぜ朱子が『名臣言行録』に王安石を加えたのか、外してしかるべきではないかと言う人もいます。

 『名臣言行録』が伝える王安石は、名臣というよりも頑固者で、我が強いというような逸話が並んでいます。例えば、(第4代皇帝・仁宗が開いた)宮中での花見と釣りの宴会で、王安石が間違ってとはいえ、平気で釣りの餌を食べたという話です。

 それから、王安石が寧波の県知事を務めた折に様々な改革を実施し成果をあげ、その経験が後の「新法」の基になった。このことについて『名臣言行録』は、寧波では成功したかもしれないが、それを全国的に適用したことが大失敗を招いたのだという批判的なトーンになっています。

 (「新法」に批判的な)朱子が『名臣言行録』を編集したので当たり前のことなのですが、王安石を除いて新法党は一人も入っていません。王安石の後輩の中には、例えば、『水滸伝』の悪役として描かれている蔡京など、有名な大臣がたくさんいるのですが、彼らは一切取り上げられておりません。他方、旧法党の人物は皆、反・王安石だということで善玉になっている。しかし実際のところ、旧法党人同士の派閥対立も非常にすさまじかったようです。

「先憂後楽」で名高い范仲淹

 ――他に思い浮かぶ有名な人物は誰ですか。

 王安石よりもちょうど一世代上で、西夏との闘いで活躍し、後に副宰相に就任。有能な人材の登用に心を砕いた范仲淹(989〜1052年)を紹介したい。

 当時、茶や塩の専売を自由化し商人にかけている税金を減じよう、つまり、経済を自由化し法人税の減税をしようという見解があった。これに彼が猛烈に反対したことが名臣として素晴らしい行為だと『名臣言行録』に載っている。

 彼が反対した理由は、商人を楽にしても、その分の負担は結局、農民に回るではないか、今流に言い換えれば、企業を優遇してもその分の税金のしわ寄せは庶民にくるではないか、というものです。これなど、ぜひ、現代の政治家の耳に入れたいところです(笑い)。

 范仲淹は、財政再建が第一で、まずは国の支出を省くべきであると。国の支出を省いて余裕ができたならば、一般庶民の税金を減ぜよと主張した。今で言う所得税の減税だと思うのです。そして、法人税の減税は最後でよいと言った。これが素晴らしいと朱子は考えて、『名臣言行録』に載せております。

 あるいは范仲淹が、蘇州の知事をしていたときに、その地方に飢饉が起こりました。彼は飢饉があったにもかかわらず、仏寺を造営したり、政府主催のさまざまな催しを盛んに行った。当然、それは批判を受けるのです。

 ところが范仲淹の答えが振るっている。現代語訳して申し上げれば、「公共事業を起こせば、貧民にも仕事が回る」と。これはいわば“ケインズ理論”です。当時の一般的な官僚たちの考え方は、飢饉があったら、「知事は質素にすべし」なのでしょうが、彼は逆に「こういうときだからこそ公共事業をやって、苦しんでいる人たちにも、お金が回るようにしよう」という合理的かつ近代的なものの考え方をするのです。

 ――范仲淹といえば、「先憂後楽」という言葉が有名ですが。

 この言葉自体は『名臣言行録』に出てきません。しかし、『名臣言行録』を読んできた中国や朝鮮や日本の知識人たちは、范仲淹というと「先憂後楽」という言葉を思い浮かべていたはずです。

 「天下の憂いを先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」――為政者たるもの古今東西を問わずこうあってほしいなと思うのです。先ほどの、民営化すると庶民が苦しむのだという言い方にしろ、蘇州知事時代の飢饉に際しての話にしろ、<勝ち組>対<負け組>ではなく、庶民のことを思いやり、政治家は最後に楽しめばよいという精神が通底しています。

 近代の政治学の文脈、あるいは歴史学の文脈では、これを温情主義(パターナリズム)と言い、あまり高く評価しないわけですが、儒教とは本来、パターナリズム賛美であり、『名臣言行録』に挙がっている名臣たちは皆そうした人たちなのです。私はそれが為政者、あるいは人の上に立つ者に必要な最低条件ではないかと思うのです。

東洋を覆った編者・朱子の影響

 ――『名臣言行録』を“金太郎飴”のようだと言われる趣旨がよく分かりました。

 もちろん、以上のことは朱子という編集者によって美化されているイメージです。ただ、美化された理念だからこそ活きるというところがある。王安石については、かなり醜い部分も書かれていますが、范仲淹は理想化して書いている。彼も生身の人間ですから生臭い話もありますが、この人は「先憂後楽」の生涯だったと後世に伝えることにこそ、古典として読み継がれる意味があると思うわけです。

 実は、范仲淹も、けっこう悪どいわけです。そういう人だからこそ実は有能だった。

 それが、美化されて語り継がれることによって理想化され、あるいは、そういう政治が望ましいのだということを本にまとめ、何百年間にわたって中国、朝鮮、日本、ベトナムの人たちに読み続けさせた朱子、あるいは朱子学というものの力といいますか、恐ろしさのようなものを感じる次第です。

 ――歴代の中国王朝の中では「弱兵・経済大国」であった宋王朝を、編者である朱子はどう評価していたのでしょうか。

 端的に言えば、ポジティブ(肯定的)にとらえ直そうとした。これは朱子個人がこの『名臣言行録』を編集する段階でそうしたというよりは、もともとの資料を記録した人たちの時点からすでに、宋という王朝が、いかに素晴らしいかを称えるという文脈で書かれていたのです。

 宋という王朝は、最初は唐のまねをすることで、大唐帝国の水準に近づけようとしていた。それが、1004年に北宋と遼(契丹)の間にて結ばれた盟約、「セン淵の盟」(=国境の現状維持、不戦、宋が遼を兄とすること、宋から遼に対して年間絹二十万疋・金十万両を送る事などが決められた)で挫折してしまうわけです。もう、唐のような広い領土を制する世界帝国にはなれなくなった。

 ただそのことをネガティブ(否定的)に考えるのではなくて、逆にポジティブに位置づけようとした。軍事的には、契丹にはかなわない。戦えば負けるから、お金を一生懸命つぎ込まなければならない。しかし、われわれには、つぎ込むだけの財力があるではないか。あるいは誇るべき文化があるではないか、と。

 ――まさにソフトパワーですね。

 そうです。宋は大文化国家です。唐の太宗とか玄宗が「自分たちの国は素晴らしいぞ」と言ったときの自慢の種とは違うところに価値の基準を置いて、宋という国柄を称えはじめたのです。


略歴

 こじま・つよし 1962年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。専攻は儒教史、東アジアの王権理論。現在、同大学院人文社会系研究科助教授。著書に、『中国近世における礼の言説』『東アジアの儒教と礼』『宋学の形成と展開』『義経の東アジア』など。文部科学省科学研究費補助金特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」の領域代表。