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(2005年12月20日付)
この地から「ソ連対日参戦」を打電 |
「吉川さん、探していました」と、いきなり流暢な日本語で話しかけられた。今年の夏、ブルガリアの首都ソフィアを訪れたときのことである。
61年前の1944年10月末、私の父・吉川光がソ連の対日参戦に関する情報を入手し、本国に打電したのがこの地である。かつての日本公使館の建物を知る人を紹介していただいた。元駐日大使ディチェフであった。ブルガリア大使として東京に赴任中、当時NHK会長の前田義則とともに、父の行方を探していたという。
吉川光は、40年2月からヘルシンキ武官室に勤務し、ラトヴィア(リガ)武官室に移り、バルト3国がソ連に併合されるや、再びヘルシンキ武官室に戻っている。41年の1月には、ドイツの対ソ戦準備について打電したが、親独色で染まっていた日本の陸軍参謀本部からは、何の反応もなかった。それどころか、参謀本部からの来訪者にドイツ批判をしないようにと脅かされたりもした。
吉川はドイツ情勢を探るために、欧州の各地を訪問し、朝日新聞特派員の前田に出会う。そして43年9月、イタリアの脱落で、日本軍部はドイツを見直すことを迫られ、そこでブルガリアに武官室を新設し、駐独武官補佐官の清水大佐が武官に、そして吉川がその補佐官に任命される。両人は44年6月ブルガリアに到着する。
ソ連の対日参戦を取り決めた連合国のテヘラン会談情報を吉川に提供したのは朝日新聞通信員を名乗る梅田某である。梅田は反間諜者の疑いがあるとの理由で、日本大使館および軍関係者からは、近づかないようにと言われていた。
ある日、梅田から電話で呼び出された吉川は、市内のとある公園でソ連の対日参戦情報を耳打ちされた。梅田からの情報とあって清水武官は情報の信憑性を疑い、吉川は結局、「確度丙」で打電した。日本側からは何の反応もなかった。
ずっと後のことになるが、私は学生時代に、父に付き添って東京での戦中の在欧武官室関係者の集いに参加したことがある。その時の話が今でも強く印象に残っている。「あの吉川電報が日本政府にちゃんと伝わっておれば、ソ連を頼りに終戦工作をすることなどなかったはずだ」と。あの電報は、当時の関係者しか知らない存在であった。
さて、「梅田某」のことである。ドイツがポーランド侵攻した際に、当時、ワルシャワ大学の教職にあった梅田良忠はソフィアに逃れ、そこで朝日新聞特派員の前田義則に出会っている。
前田は、39年冬にバルカン情勢視察を行った。オリエント急行でソフィアまで来たところ、吹雪のために列車は足止めをくらい、数日、小さな旅館に投宿した。その宿で知り合ったブルガリア女性を見初め、翌年、結婚する。前田の結婚に梅田は保証人をつとめたという。そして、梅田は前田の仲介で朝日新聞通信員になる。
ディチェフ元大使は、実は前田の奥さんの妹となじみの人であった。その縁で、駐日大使時代、前田とともに大戦中のソフィアの日本人関係者を、そして吉川を探していたという。
「梅田某」が梅田良忠であることを突き止めることができたのも実は偶然であった。93年春、私がウィーンを訪問したときのことである。日本大使館を訪れた際に歓迎してくれたのが小野寺竜二大使であった。聞き覚えのある苗字なので、ひょっとして小野寺武官(編集部注・スウェーデン公使館付き武官として戦時中、欧州での日本情報機関の一角をになった小野寺信氏のこと)の縁者であるのかと尋ねると、息子であるという。
吉川は、かつてヘルシンキおよびリガの武官室勤務時代、月一度、ストックホルム武官室に出張していた縁で、小野寺武官の信頼を得ていた。先に触れたドイツの対ソ戦準備の情報は、実は在ストックホルム・ドイツ駐在武官から小野寺武官が直接聞いた話を吉川に伝え、吉川がヘルシンキから打電したのである。
小野寺大使と話を終えたあと、ある日本大使館員が、ポーランドに「梅田」という日本人がいると聞かせてくれた。ひょっとして、と思い、私はワルシャワまで訪ねていった。その方が、梅田良忠の息子の梅田芳穂(元ポーランド自主労組「連帯」の幹部)であった。梅田良忠と前田の結びつきを語ってくれたのは、この梅田芳穂である。
かつて日本公使館の入っていた建物には、石油会社のシェルが入っていた。ソ連がブルガリアに侵攻してきたために、日本の外交関係者一行は44年11月、この公使館を後にしてイスタンブールに向かう。
そして翌年3月1日、イスタンブールを出発し、モスクワに立ち寄り、モスクワの日本大使館に歓迎された。そこで吉川は佐藤大使と話し合っている。ソ連の対日参戦情報を伝えたのかどうかは、不明である。
モスクワに3日滞在した後、一行はシベリア鉄道でウラジオストクに向かう。一行を乗せた客車の窓は白いペンキで塗られ、客室の前後の昇降口にゲーペーウーが立哨して、外部からは完全に遮断されていた。この客車に接続された列車で、ソ連軍の兵力が続々とシベリアに移送されていたのを知るのは後になってのことであった。
(神戸大学教授)
略歴
きっかわ・げん 1951年、広島県生まれ。上智大学外国語学部卒業。一橋大学大学院博士課程を修了。広島修道大学教授を経て現職。この間にロンドン大学(LSE)国際関係研究センター客員研究員(92〜93年)。著作に『ヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)――人権の国際化から民主化支援への発展過程の考察』など。編著に『なぜ核はなくならないのか――核兵器と国際関係』などがある。