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寄稿論文

中国・歴史上の智慧に学ぶ 清朝の平和政策「承徳避暑山荘」

(作家、中国歴史研究者・斎藤恵美)

(2005年8月30日付)


モンゴル人へは防衛より交流

万里の長城を無用にした“お友達外交”



北京から東北へ150キロの地

 北京から東北へ150キロ、承徳(しょうとく)という町がある。日中戦争時代は馬賊が活躍した熱河と言われる地方だが、ここに清朝時代に作られた「避暑山荘」という皇帝一家の別荘がある。

 避暑山荘は、清朝の「陪都(ばいと)」ともいえる役割を担っていた。遊牧民が夏と冬の牧草地を変えるように、騎馬民族が作り上げた国家には首都のほかに「陪都」があり、冬と夏で宮廷が移動する。特に乾隆帝はほぼ毎年夏の約5カ月間をこの承徳で過ごし、残りの時間を北京の紫禁城で過ごしたのである。

 承徳はまさに清朝の「夏の都」といえる。と言っても、北京が暑いから本当に「避暑」に訪れていたのではなく、ここで行われるさまざまな行事を通してモンゴルの諸部族との交流を深め、国境の平和を保つ目的があった。

 清朝は、中国東北地方の少数民族・満州<女真(ジョルシン)>族が中原(ちゅうげん)の漢民族を征服してできた「征服王朝」である。200年にわたる統治の間に最後は漢族に、ほとんど同化されてしまい、満州語を満足に話せる人もいなくなってしまった。が、建国当時はモンゴル族から受ける影響も大きかったのだ。

 まだ東北の針葉樹林の中を駆け回っている頃、満州族はモンゴルを文明の手本としてきた。地理的にも近いうえ、同じ騎馬民族として生活習慣も似ている。またチンギス・ハーン時代に世界中の文明に触れたモンゴルは、征服した民族の多くの語彙を吸収し、表現力豊かな言語体系を完成させていた。

 勃興(ぼっこう)初期、満州族はまだ自らの文字さえ持たなかったため、すべての文書のやり取りをモンゴル語で行った。その後、モンゴル文字に丸や点をつけて満州語表現に適するように多少の改良を加えて作られたのが、満州文字である。このように文化面でも大きく影響を受けたほか、軍事面でも深いつながりがあった。

親しく触れ合い酒酌み交わす

 中原の漢族に比べ、圧倒的に少数派である満州族は東北にいる早い時期にモンゴル族を味方につけ、その高い軍事力を背景に天下の征服を推し進めた。モンゴル族と提携することで天下を取れたともいえる。

 ――満蒙(まんもう)一家という政策もそのような背景から来ている。満州族にとってモンゴル語の習得は必須教養であり、公主(皇帝の娘)の多くはモンゴル王公に降嫁し、皇帝の後宮にも多くのモンゴル女性が入内(じゅだい)した。

 中原の主となった後も、清朝とモンゴルの緊密なつながりは続いた。清朝の軍事力は相も変わらずモンゴル騎兵に大きく依存し、国防には欠かせない存在だったからだ。承徳での数カ月の滞在中は、モンゴル族と清朝の皇帝が肌身で触れ合う大切な期間だったのだ。ともに酒を酌み交わし、皇帝が自らモンゴル語をしゃべって会話し、狩りの円陣を組み、若者らの相撲、武芸を見物しては褒美を与える。

 さらにモンゴル族がチベット仏教(ラマ教)を信奉しているため、承徳の避暑山荘の周りには「外八廟」と言われる大小のラマ教寺院が作られ、信仰心厚いモンゴル人らを喜ばせた。皇帝の承徳滞在に合わせ、チベットから高僧が呼ばれ、時にはパンチェン・ラマと言った最高層の高僧までが訪れ、これらの寺院で法会を開いた。

 モンゴル王公らにとってこういう普段ではめったに触れることの出来ない最高レベルの宗教行事に参加できることも承徳滞在の楽しみの一つだったに違いない。まさに一大テーマパークでのイベントのオンパレードだったのだ。夏の間、延々とこれらの行事を続けることで、モンゴル族らは皇帝のためなら命がけで戦おう、という忠誠心を新たにして草原に帰っていくのである。

民族紛争が多発の現代に教訓

 これは清朝の画期的な「お友達外交」政策と言ってよい。

 古来、中原の支配者らは万里の長城のむこうに住む騎馬民族との攻防に莫大な予算をかけてきた。

 特に宋、明朝は、かわいそうなくらい軍事費を際限なく増加させられ、稼いだ先から投入する羽目に陥る。明代に至っては軍事力に自信がなくなればなくなるほど、すべてを犠牲にしてまでも万里の長城を補強し、延々と建設を続けた。おかげで我々が今でも観光地として登ることのできる壮大な長城が出現する。

 例えば明代中期、嘉靖年間には年間国家予算すべてを出しても防衛費が賄えず(ほとんどが北方のモンゴル戦線に消える)、増税して何とかしのぐというみじめさだ。それが清代には長城が無用の長物と化してしまった。

 反目し合い、殺し合うのではなく、相手の言語を学び、共に狩りをし、避暑山荘で一夏中、酒を酌み交わし、嫁を交わし合うことで親睦を深める。これで明朝の国庫を空っぽにするまで搾り取られた草原への防衛が解決した。

 長城は荒れるに任せ、修復する必要もなく打ち捨てられることになる。世界各地で民族紛争の絶えない昨今、肌身の交流で戦争が避けられる貴重な例であるように思う。

 (作家、中国歴史研究者)

略歴

 さいとう・えみ 1972年生まれ。大阪外国語大学中国語科卒業。96年、大阪の寝具問屋鐘忠(株)に就職、北京の捺染(なっせん)工場に派遣される。2000年、退社。現在はフリーランスで通訳・翻訳業の傍ら、清朝と北京の歴史をテーマに執筆を進める。