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寄稿論文

ヨーロッパの共通歴史教科書

(東洋哲学研究所ヨーロッパ・センター研究員・満足 圭江)

(2005年6月14日付)


12カ国の学者が3年がかりで編纂

国家の色眼鏡ない記述で若い世代に


1992年、7カ国で同時出版

 5月29日、フランスで欧州憲法批准のための国民投票が行われたが、過半数の国民が反対票を投じ否決された。

 国会の議決による批准という確実な選択肢もあったのだが、あえて自信を持って国民投票を推進してきたシラク大統領の当初の思惑とは全く逆の結果となってしまった。その結果、6月1日オランダでの国民投票でも否決され、またイギリスでも国民投票の延期が決まり、欧州統合の要ともいえる欧州憲法発効のスケジュールが大幅に遅れることが確定した。

 第2次大戦後のフランスは、もはや二度と国土を、そして周りのヨーロッパ諸国を戦場にはしないとの決意で、欧州統合のイニシアチブをとってきた。フランス国民も、欧州連合が理想のユートピアであるかのようにその実現を心待ちにし、ユーロという共通通貨を歓迎した。しかし、いよいよ統合が仕上げの段階に入るにつれて、その負の部分にも注目し始めたのである。

 欧州統合をより深く考えるにあたって、今フランスで盛んに論議されているのが、ヨーロッパとは何か、フランス独自の文化を保ちながら、ヨーロッパ人であることは可能かなど、すなわち、フランス人としてのアイデンティティーの問題である。この問題の解決に、欧州12カ国の歴史学者が編纂した『ヨーロッパの歴史』という欧州共通教科書が一つの示唆を与えてくれる。

 日本の高校生にあたる15歳から18歳を対象としたこの教科書は、ローマ条約(欧州経済共同体発足)35周年を記念し、1992年、欧州7カ国で同時出版された。その後、改訂版も出て、現在では日本語も含め世界28カ国語に翻訳されている。

“欧州市民”形成への前提

 フランス人の父とノルウェー人の母との間にイギリスで生まれた、この本の発案者であり編集者であるフレデリック・ドゥルーシュ氏(「欧州の責務に関する協議会」代表)は、発刊当時、ル・モンド紙のインタビューに次のように答えている。

 「私はイギリスで教育を受けたが、そのときはイギリス人が常に勝利者であったとの印象を受けた。しかし、フランスに戻ったとき、いとこたちに『ブーヴィーヌの戦い(1214年、フランスがイギリスに勝利した戦い)は?』と言われた。そのときから、欧州共通の教科書をつくることを考えていた。その目的は、若い世代が、歴史を無理やりゆがめようとする国家の色眼鏡なしに、数世紀にわたる歴史を読みとることができるようにすることであり、それが欧州市民の形成に必要な前提であると彼らが思うことである」

 さらに、「ヨーロッパとは、欧州連合の加盟国だけを指すものでもなく、大西洋からウラル山脈までという地理上の領域だけを意味するものでもない」との発行責任者のジャック・モンタヴィル氏の言葉に付け加えて、ドゥルーシュ氏は「民主主義の伝統、個人の自由の探求が、ヨーロッパに属するすべての国の基本的な価値である」と定義している。

 この教科書の執筆者12人は、高校や大学の教養課程で教鞭をとり、しかも各国で教科書をすでに執筆している経験者である。彼らは、単に各章を分担することをやめ、写真やデッサン、資料、翻訳も含めて、全員がこの教科書のすべてのページの責任者であるとの自覚で、3年にわたって打ち合わせを重ねながら作業に携わった。

 しかも、当初は、販売ルートに乗せるための出版社を見つける苦労もあり、ドイツ、イタリアを除き、欧州共通の視点で教育プログラムをつくろうと考えている国もなかった。実際、この教科書を正式に使っているのはロシアだけであるが、ドゥルーシュ氏は、「ぜひ家庭で、親子で読んでほしい」と訴えている。

将来、アジアでも発刊望む

 先ごろ、日本経済新聞のインタビュー(5月18日付の朝刊)に応じた同氏は、アジア諸国での反日感情の高まりに関して、“互いに過去をきちんと見つめなおさないのが原因であり、和解のために日中韓が共通の教科書をつくること”を提案している。

 現在、日韓の歴史教科書検証を目的とした日韓歴史共同研究が、政府主導で進められているようだが、悪化する両国の関係改善のための外交政策であり、共通教科書の作成を目指したものではない。

 企業戦略コンサルタントを本業とするドゥルーシュ氏が、国家を当てにせず、関係者の協力を得ながら民間レベルの連帯で実現した欧州共通教科書。アジアでも市民レベルの粘り強い対話と共同作業で、共通の歴史教科書が作成されるのも、そう遠い日ではないと信じたい。

 そうしたアジア諸国の人々との共同作業の中で、日本人とは何かというアイデンティティーを確立できたときに、初めて一人ひとりが世界市民として、他文化の人々と心を開いて対話し、友好を結べるのではないのだろうか。

 (東洋哲学研究所ヨーロッパ・センター研究員)


略歴

 まんぞく・たまえ 熊本市生まれ。創価大学大学院博士課程後期修了後、パリ第5大学大学院博士課程に留学。フランス理論社会学専攻。主な著書に『賢く生きる』(共著、第三文明社刊)。