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(2005年4月26日付)
平等の教育が平等の社会築く |
1947年5月3日、日本国憲法が施行され、まもなく58年目。この憲法には、帝国憲法にはなかった「個人の尊厳と男女平等」が盛り込まれた。その起草に奮闘したのが、当時22歳だったベアテ・シロタ・ゴードンさんである。ドキュメンタリー映画『ベアテの贈りもの』の公開を機に来日した、ベアテさんに話を聞いた(藤原広記者)。
――映像による戦後女性史の一断面といえる作品です。製作の話がきたとき、どのようなお気持ちを持たれましたか。
とてもうれしかった。夢みたいでした(笑い)。憲法の人権条項によって活躍できるようになった女性たちが出演して、自らの体験を話していますし、父(世界的なピアニストのレオ・シロタ)のピアノ演奏も流れています。ドキュメンタリーですが、とても美しく芸術的に仕上がっていると思います。
特に、父母が結婚し暮らした1920年代のウィーンを髣髴とさせるシーンには、心が打たれました。
――日本で、女性が活躍できるようになったのは、ベアテさんのおかげです。
私は、家庭の中で子どものころから、「男と女は平等」という暮らしの姿を見ていました。ところが父に連れられて日本に来てみると、まったく違う。大きなコントラスト(対照)でした。
日本では、来客があっても妻は会話に入りません。外出しても、夫の後ろを妻が歩きます。それが不思議でした。そういう姿を見て、「日本では、女性は権利がない。かわいそう」という気持ちが小さいころからあったのです。
――音楽家の家庭に育ったことも、平等条項の作成に影響をしているのでは?
そうかも知れませんね。芸術と関係のある人には自由な心を持っている人が多いと思います。私が知っている芸術を愛する西洋人は、女性を差別しませんでした。父もそうでしたし、母は父の音楽活動をさまざまな面で支えていました。お互いに平等で、そして助け合う――それができないことは、とても残念なことだと思っていました。
――互いに助け合うことで、さらに大きな仕事もできますね。
男性と女性が同じ権利を持っていないこと――。それは正しいことではありません。人間の50%は男性、50%は女性です。社会や家庭の中でつりあいを保つには、男女の平等が必要です。
男女平等の雰囲気にみちた家庭なら、子どももおおらかに育つはずです。物事に取り組む際も、男性しかいなければ、男性のやり方でしかできません。しかし、女性がいれば、男性とは違った方法を取ることができます。つまり、男女平等は、社会の発展にも有益なのです。
――男女平等の実現には、教育が大きな役割を果たすと思います。
以前、アメリカや日本では、学校教育で男女に格差を設けていました。例えば、サイエンス(科学)は男の子に向いている。裁縫は女の子が行い、男子はイスを作る……。こうした教育は、差別の温床になってしまいます。今は男の子も料理を学び、女の子もイスを作るようになりました。大変にいいことです。
こうした教育を受ければ、男女差別はなくなっていくでしょう。教育は平等になされなければなりません。平等の教育が平等の社会を作るのです。それは家庭でも同じです。男の子が料理をし、食事の後かたづけもする。そういうことが大切だと思います。
――男女平等も、まず、平和であることが前提ですね。
だから、日本の平和憲法を大切にすることです。そして、日本に平和憲法があることを、もっと世界に宣伝したほうがいい。世界の国々は、ほとんどそのことを知りません。平和憲法があったから、ほかの国と戦争をしなくて済んだのですから。
国が平和であるためには、生命のかけがえのなさを感じ取っている女性の役割が大切だと思います。
女性ならだれでも、自分の子どもを戦争に送るのはいやですから。日本の女性はこれまで差別を受け、戦争で苦労したのですから、これからは平和のために戦わなければならないと思います。
今は、インターネットの発達で、外国のこともよく分かるようになりました。それも活用しながら、自分の国のことだけを考えないで、眼を世界に向けてください。私たちは「グローバル・ファミリー」――こう考えれば、いいのではないでしょうか。
――この映画を見る人にメッセージを。
憲法24条があることで、戦後、女性たちが大学に入学したり、社会的に活躍できるようになりました。女性たちは、この映画に出てくる女性の姿を見れば、勇気が出てくるでしょう。彼女たちは、日本の女性のモデル(手本)です。モデルがあれば目標にできるはずです。
女性だけでなく、この映画を男性にも見てもらいたいですね。女性が幸せであることが、男性にとっても幸せなことなのですから。
<『ベアテの贈りもの』は今月30日(土)から、東京・岩波ホールで公開>
略歴Beate Sirota Gordon 1923年、リストの再来と謳われたピアニスト、レオ・シロタの娘としてウィーンに生まれる。29年、父とともに来日。芸術家のサロンになった東京・乃木坂の家で少女時代を過ごす。39年、渡米。45年12月、GHQ民政局のスタッフとして再来日。22歳の時、日本国憲法草案の人権条項作成にたずさわり、女性の権利を明記することに尽力。帰国後、日本やアジアの文化交流を推進。著書に『1945年のクリスマス』(柏書房)など。