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寄稿論文

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近代ジャーナリズムと宗教憎悪

村上直之
(神戸女学院大学教授)

(1998年2月14日付)



ジャーナリストが現代の司祭的地位を独占

「現世教」の盲信者(マスコミ人)ゆえに激しく攻撃

「イエスの方舟」叩きのあの頃…

 あれはたしか、マスコミが「イエスの方舟」の行方を追って狂奔(きょうほん)していた頃のことだ。

 京都東九条に「白虎社」という前衛舞踏グループの稽古(けいこ)場があって、リーダーの大須賀勇以下、十五、六名が寝食をともにしていた。

 その後、この舞踏団は、韓国をはじめ東南アジア諸国、ヨーロッパ、イスラエル、中南米と世界各地の国際演劇祭で招待公演に呼ばれるほど有名になるのだが、当時は、男は坊主頭、女は逆毛の蓬髪(ほうはつ)しかも男女ともに眉(まゆ)を剃(そ)った、魑魅魍魎(ちみもうりょう)のような集団とみられていた。

 舞台公演だけで食べていけるはずもなく、キャバレーやナイトクラブのショウダンサーとしての収入が彼らの生活基盤だった。

 毎年の夏、和歌山県の熊野で体験合宿を開いて団員の数を増やしていったのだが、大学を中退したり高校を出たての若者の入団が多く、そんな未成年の彼らは家族との間にトラブルを抱えることも少なくなかった。

 当時、私は、顧問格のかたちで公演の企画や情宣活動を手伝っていた。

 ある日、全国紙の記者から「白虎社」について尋ねたいという電話を受けた。彼らの活動が世間に知られるためならと、私は喜んで取材に応じた。

 けれど、インタビューを受けているうちに、取材が彼らの芸術活動についてではないと感じはじめた。どうやら、その記者は彼らを反社会的集団とみて取材しているようだった。そのことをリーダーの大須賀に告げると、彼は笑いながら、自分たちが最近「第二のイエスの方舟」と思われている、と語った。

伝統社会における宗教の役割簒奪

 けっきょく、記事は書かれなかったが、あの当時、「白虎社」がスキャンダルに晒(さら)される可能性はおおいにありえた。『週刊朝日』は、熊野合宿の公演について、和歌山県の過疎村(「日本のチベット」と表現された)の住民が「金粉ショウ」に狂喜したと書きたてたし、わが国のマスコミは彼らの「裸踊り」にしか関心がなかったのだ。

 その後、インドネシア公演を見た『アジア・ウィーク』の記者が、「ヒロシマの廃虚(はいきょ)から立ち現れた亡霊のようだ」と的確な記事を書いたのとはまったく対照的だった。事実、主催者の大須賀は原爆胎内被曝(たいないひばく)者であった。

 もしも「白虎社」が新入団員の家族とのトラブルもしくは彼ら男女の共同生活をネタに、マスコミ攻撃の的になっていたなら、私はおそらく「オウム真理教」事件での某教授のように職を追われていたにちがいない。なぜなら、第一回の熊野体験合宿を企画したのは私だったのだから。

 だが、なぜ、マスコミはそこまで追及の手を伸ばさなかったのか。

 あの当時はわからなかったが、現在の私には、その理由はきわめて明快である。「白虎社」が宗教団体でなかったからだ。マスコミは本能的に宗教団体を憎悪する体質をもっているのである。

 このことはマスコミ、いや近代ジャーナリズムの本質に関する問題である、と私は考えている。

 言論・出版の自由の旗手そして民主主義のパイオニアとしての名誉ある役割をになったジャーナリズムは、同時に(しかも暗黙の裡に)、伝統社会における宗教的・儀礼的役割を簒奪(さんだつ)したのである。

定期的なニュース消費は“集合儀礼”

 私は、イギリスにおけるジャーナリズムの歴史を追跡するプロセスで図らずも気づいたのだが、近代社会の成立以前には数世紀にわたって、教会の牧師が今日のジャーナリストの役割を担っていた。事件のニュースは説教のよいテーマであったし、実際、犯罪事件のニュース・パンフレットやブロードサイド(わが国の瓦〈かわら〉版)の書き手は監獄の教誨(きょうかい)師であったのだ。

 それが、十九世紀半ば大衆新聞の登場によって姿を消し、今日のようなニュースとりわけ事件ニュースの大量消費が行われるようになって、ジャーナリストは現代の司祭的地位を独占するにいたったのである。

 振りかえって考えてみよう。私たちは新聞、テレビ、ラジオを通じて、日々、ほぼ同時刻に膨大(ぼうだい)な量のニュースを消費している。この定期的なニュースの消費こそが、近代社会そのものを支える集合儀礼にほかならない。

 時々刻々と失われゆく「現在」への飽くなき欲望の更新システム、いいかえれば「いま、そしてここ」という時制へと私たちを執着させる制度(それなしに産業システムは一時も作動しない)として成立した近代ジャーナリズムが日々私たちに送りつづけるマナ(注=昔、イスラエル民族が神から与えられたという食物)、それがニュースなのだ。

 伝統的な宗教儀礼は参拝者を一定の場所に集合させなければならないが、この巧妙な仕掛けはもはや私たちを一堂に会させることなく、個々バラバラのままでひたすら「現在」へと拝跪(はいき)させるのである。

 私はこのようなジャーナリズムという制度をひそかに「現世教」と名づけているのだが、マスコミ人の宗教に対する激しい憎悪感情は、彼ら自身がその盲信者であることに根ざしているのである。

(神戸女学院大学教授)



略歴 むらかみ・なおゆき 1945年高崎市生まれ。高崎高校卒業後、京都大学教育学部卒。京都大学助手をへて現職。主な著書に『花のおそれ』(誠文堂新光社)『近代ジャーナリズムの誕生―イギリス犯罪報道の社会史から』(岩波書店)などがある。