

(1998年1月10日付)
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マスコミも同じ |
国民のジャーナリズムに対する不信感は政府の官僚組織に対するそれをも上回るものがある――という痛烈なメディア批判の本をアメリカのジャーナリスト、ジェームズ・ファローズが書いている。「ブレーキング・ザ・ニュース」と題するこの本は、メディアの専横と巨大な政治パワーがアメリカの民主主義を破壊しており、いまや多くのアメリカ人大衆はメディアに対する憎しみすら抱き始めたと主張している。
ファローズといえば、ベルリンの壁と冷戦の崩壊と同時に「日本封じ込め」という刺激的なタイトルの論文を書き、世界基準から逸脱した日本経済の孤立をいち早く分析して、「日本異質論」を展開した論者として知られる。最近の彼の問題関心の推移から推しはかると、かつてのアメリカの中心的課題だった「日本」の影は薄くなり、アメリカ最大の関心はいまや「メディア問題」に移行したということだろうか。
それはさておき、「メディア」が社会問題の中心に位置している点は日本も同じである。特に阪神大震災のあと、松本サリン事件などの一連のオウム事件報道や神戸の小学生殺人事件にいたる最近の報道は、多くの誤報や人権侵害を生み、とみに劣化したメディアの問題点がいっきに噴き出した感がある。
メディアが社会の情報環境を悪化させているという点で、アメリカと日本には似た状況がある。言論の自由の形やメディアのシステムは異なっているにもかかわらず、類似のメディア現象が存在している点は興味深い。日本とアメリカの共通点は世界で最も情報化が進んだ情報先進国でありメディア大国ということだ。こういう先進国のメディアがジャーナリズムの公共性の役割を衰弱させて、売らんがための記事内容を競い合い、ひたすら富と利潤を求める光景はまことに不気味である。
このようなメディアの劣化現象はなぜ起こり、どうしたら現状を変革することができるのだろうか。メディアとて資本主義的産業だから他企業なみに利潤原則によって左右されることは避けられない。しかしメディア産業は通常の産業のように利潤原則だけで動いてよいわけではない。メディアは利潤原則を無条件に適用できない領域を内包している。パパラッツイにつけ回されたダイアナ元妃の悲劇はこの問題を世界に訴えた。
メディアは国民に正しい情報を伝え、世界認識のための共通の情報環境を与えるという利潤追求以外の役割がある。その役割は公共性に結びつくものであり、私企業といえどもメディア産業は立法、行政、司法とならぶ政治的、社会的パワーをもっていることを忘れてはならない。
メディア産業は公共性との接点において成立しているゆえに、「言論の自由」という法の枠組みで守られているのである。ところがメディアはこの重要な自らの位置をしばしば忘却している。公共性をないがしろにして、知る権利の名の下に他人のプライバシーや名誉を平然と侵害し、国民を間違った方向へ導く誤報が日常化している。侵害と誤報こそがメディアの権利である、といわんばかりの倒錯した事態すら頻発している。
アメリカではひとりの有名なテレビキャスターは、数十人の国会議員に相当するパワーをもつといわれる。ところが選挙で選ばれたわけではないメディア関係者に公共性の自覚を促すことは、口でいうほど簡単ではない。
メディアの改革論について、私は近著『日本型メディア・システムの崩壊』で追求したが、日本のメディア・システムは独自の伝統と文化をもっており、改革の道筋を考えるためにはその百年余の歴史的条件を吟味する必要がある。付け焼き刃やその場しのぎでは本質的な改革にはならない。
アメリカではしばしば政府組織や軍組織などで倫理や志気の総点検が行われ、メディアにも同様な倫理観の再構築が求められている。
しかしメディアの劣化現象は同じでも、日本とアメリカではそのよって立つ基盤は大きく異なるので、アメリカの方法をそのまま日本に適用することはできない。だいいち日本の場合、倫理観の確立といってもその哲学的基盤は漠然としている。不祥事に際して幹部がゴメンナサイと謝ることが社会的倫理だという勘違いすら起こっている。したがって倫理以上に全体のシステムの改革という視点が日本では特に重要である。この点は政府の官僚組織や金融システムの改革と相通じる課題だ。いわゆる日本型システムの旧弊は日本のメディアにも巣くっているといえる。
取材源とメディアが癒着し、情報をコントロールする「記者クラブ」や新聞社とテレビ局の系列関係の見直し、メディア自身の情報開示など、日本型メディア・システムの欠陥を克服して、規制のないオープンなメディア市場を構築する必要がある。しかし、それ以上に重要なことは、メディアと日常的に接している読者、国民による改革の熱意と努力であろう。
国民の本当の知る権利に応え、われわれにとってよりよい情報環境を形成するためには、ささいなことでも見逃すことなく、裁判も含めてどんどんメディアに対して発言し、読者市民の影響力を強化することが改革の早道だ。従来のような送り手と受け手の一方的な関係を崩し、一人一人の読者、視聴者からも自由に発信できる双方向のメディアを作ることがいま最も必要なことである。
(ジャーナリスト)
略歴 しばやま・てつや 一九四〇年生まれ。朝日新聞記者として東京本社学芸部、「朝日ジャーナル」編集部、戦後五十年企画本部などに二十五年間勤務。九五年に退職後、アメリカのハワイ大学客員研究員、東西センター客員研究員となり「情報社会論」「比較メディア論」を研究。現在はフリーランスで文筆のかたわら、国際日本文化研究センターの共同研究員や複数の大学で非常勤講師をしている。著書『ヘミングウエイはなぜ死んだか』(朝日ソノラマ)『日本型メディア・システムの崩壊』(柏書房)など。