

(1997年8月2日付)

七月二十八日は宮武外骨の命日である。近年になってようやく外骨の評価が高まりつつあるが、まだまだ知る人ぞ知るジャーナリストだ。一九五五年、八十八歳で死去。東京駒込・染井霊園の墓に眠る。外骨を愛し、業績をしのぶ者たちでこの時期、外骨忌が催される。一九七七年七月三十日に、画家で作家の赤瀬川原平さんら数人で、第一回外骨忌が行われて以来二十年。今年も八月二日に予定されている。
これより先の七月二十七日、外骨の故郷である香川県綾南町の宮武家菩提寺・本法寺では、「ぐわいこつふあんくらぶ」のメンバーたちが集まり、第五回さぬき外骨忌が行われた。外骨死して四十二年、今なお人々の心に生き続ける外骨。その魅力、現代に通じるメディアのあり方を改めて考えてみたい。
外骨の生涯は、“筆禍(ひっか)の歴史”と言っていい。筆禍とは、著述の内容が当局の忌諱(きい)に触れて処罰されることである。外骨にとって最初の筆禍は明治二十二年、大日本帝国憲法を茶化したことに始まる。多くの国民にとって自由と民権とは程遠い憲法の中身に反発した外骨は、持ち前のユーモア精神で憲法をパロディー化した『頓智(とんち)協会雑誌』二十八号を発行。それが不敬罪に問われ、主筆の外骨は三年八カ月の実刑に処せられる。
外骨二十二歳。後悔するどころか、ますます闘志を燃やした外骨はこの入獄について後にこう書いている。「……このことあって以来、余は、藩閥官僚政治の専断横恣は断じて許すべからずと感じ、新聞に雑誌にこれを極力攻撃し、藩閥官僚と連なる資本家の悪辣(あくらつ)さに就いても仮借なき筆誅(ひっちゅう)を加えて来たのであった……」裏を返せば、真のジャーナリストになれたのは明治政府のおかげと言っているのだ。
この文章こそ、外骨の生涯を貫いたジャーナリスト魂と言っていい。事実、外骨が生涯をかけて不正を暴(あば)いた相手は、政治家であり官僚・官憲であり悪徳業者であった。力を持たない一般庶民を攻撃し暴きたてるという考えは微塵(みじん)もなかったのである。庶民に支持されてこその言論人たるを旨とし、自らの身体を張って権力と闘い、世論を喚起し、時代の証言者になるという決意は、表現の自由の奪われた時代にあっては並大抵のことではなかったはずだ。
その上での外骨の不屈の精神、多様性、寛容性、ユーモアのセンスには頭が下がるというより他はない。外骨は生涯に投獄四回計四年、罰金・発禁計二十九回経験している。すべて筆禍。官憲と癒着した司法が外骨に下した罪名は、不敬罪、官憲侮辱罪、風俗壊乱・秩序壊乱罪という、今となっては不条理そのものであった。
その外骨が今に生きて現代ジャーナリズムの有り様を見れば何と言うだろうか。記者クラブ制度の中で“官報”になりがちの安易な発表ジャーナリズム、横並び主義、マスコミ人のサラリーマン化、官僚的体質、営利主義、誤報、虚報、やらせ、そして弱者攻撃……。外骨があれほど待ち望んだ民主主義、表現の自由の保障された現代にあって、自ら萎縮(いしゅく)し、一方で暴走するマスメディア。彼らの歴史認識、人権感覚、批判精神の希薄さに、外骨は一体何といって嘆くだろうか。
神戸市須磨区で起きた小学生殺人事件で、新潮社の週刊誌『フォーカス』と『週刊新潮』が被疑者であるA少年の顔写真を掲載したことが話題になっている。メディアの人権感覚が厳しく批判されていると言ってもいいだろう。まだ逮捕され有罪が確定してもない時期に、少年であるにもかかわらず現行法律を無視するような週刊誌が、「少年法を改正すべきだ、だから掲載した」という論理はおかしい。
彼らにそんなことを言う資格があるのかと問いたい。両誌が常日頃、人権を守るための記事を書いてきたか。少年法がおかしいと言うなら、納得のいく論理をこれまで展開してきたか。売らんかなの感覚で個人のスキャンダルを好奇の目で煽(あお)り、むしろ人権を守ろうとする立場の人々を“人権屋”と揶揄(やゆ)して足を引っ張ってきただけではないのか。
このことへの抗議の意志をこめて、作家の灰谷健次郎さんが、新潮社の自著の版権を撤退すると表明した。灰谷さんのこの行動を受けて、あとに続く作家の方々に期待したい。
そしてまた、今この国すべてのメディア、ジャーナリストが問われているのだと思う。
(フリーライター)
略歴 さこぐち・さなえ 一九四九年香川県生まれ。財田川事件や人権と報道、原発などの記事を新聞、雑誌に掲載。同県出身のジャーナリスト宮武外骨を研究するグループ「ぐわいこつふあんくらぶ」の会長。